神智学による第五根幹人類(アーリア)・亜人種は次の通り
1.ヒンドゥー族 (紀元前6万年)
2.アーリヤ・セム族/アラビア族 (紀元前4万年)
3.イラニヤ族 (紀元前3万年)
4.ケルト族 (紀元前2万年)
5.チュートン族 (紀元前2万年)
6.世界の各地に出現開始
7.未だ出現していない
※ シュタイナーの言うインド文化期から現在の第五文化期までの時間枠は、アトランティス崩壊の後から現在までを分けたもので、神智学の七つの亜人種の概念とは根本的に異なる
※・人種分類は優生学などの差別的な思想と結び付きやすく、実際にクー・クラックス・クランやナチスのような勢力を生み出す遠因となった『ポスト・アトランティス』という語はシュタイナーによるもの。彼は『アーリア』という語を避けた。彼はナチスの監視下にあったし、死因はおそらくナチスによる。神智学と人智学とでは『第五根人種』の概念がまるで異なるのだが、第四根人種=アトランティス文明の人種のあと、という意味ではポスト・アトランティスは妥当と思われる。
第五根人種のはじまり | |
A.E.Powell(神智学大要・引用原書)によると… 318p 第五根人種創設の決定的一歩が踏み出されたのは約10万年前 その時白色のセム族がルタ北方の山脈の中に孤立して住んでいた。彼らは山をこよなく愛した。アフリカ大陸最北端・アトラス山脈のカビール族はその最良の見本である。彼らは(見たことはないが)『王にして主』を戴き、いずれ『約束の地』に連れて行かれると聞かされていた。(ヘブライ物語のうちのいくつかはおそらくこの歴史的事実に由来している) 黒い支配者による第五亜人種(セム族)の支配が切迫していたため、マヌは紀元前79,797年にその民をサハラ海を経て陸路アラビアに移動させることにし、30隻(500トンくらいのもの)の船団を用意した。粗末な船 三航海し、(一回につき)約3,000人の人間と家畜がはこばれた。この9,000人中、5/6(7,500人)が第五亜人種(セム人)で、1/12(750人)がアッカディア人、別の1/12(750人)がトルテク人。どのグループもその人種の中で一番すぐれていた。 その頃エジプトではトルテク文明が花を咲かせており、前記移民がエジプトの地を通過するとき、エジプト人は彼らを引き留めようと賄賂を試した。少数の者はマヌの命を無視して誘惑に屈し、のちにトルテク人の奴隷に成り下がってしまった。 残りの者はマヌに引率され、今のスエズ運河を経、アラビア高地に到達した。少数の黒人が住み、谷間は灌漑すれば肥沃になる土地だった。 植民地はある期間平穏無事に暮らし、土地を耕し、アトランティスからもってきた種子を植え付けた。二千年頃(?)になると人口は数百万に達し、砂の帯と草と水によって他の世界より隔絶した。(今のメッカ) 望ましからざるタイプの者は移民として外に出された。ある一隊はパレスチナの南、ある一隊はエジプトの南へ行った。これらのうちの一か所で馬が出来上がった。 牧畜と農業 増えすぎた人口 多数がアフリカに植民したが後に全滅した |
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320p 紀元前75,025年の大激変のわずか数年前、マヌは彼自身の子孫の中から700名を選んで非正統的な厳しい宗派を造らせ、キャラバンを組ませて北方へ出発した。 スミロ・アッカディア帝王の版図(現在のアジアトルコ、ペルシャ、およびその先々の国を含む)を通過、トルケスタンでトュラニア封建諸邦(現在のチベットを含む)連邦と交渉、数年後にゴビ海に達し、そこで北方に拡がる丘陵地帯に転入した。そこは大きな浅い海が極北に向かって広がっていた。 この頃、レミウリアの星は甚だしく破れ(…?)、その最近接点は北寄り約千哩(千マイルは約1,600キロメートル)であった。 マヌは北東を望むある岬に若干の信徒を配置したが、大多数は地味の肥えた、噴火口に似た凹地に植民。『白い島』は南東にあって視界に入らず、のちに高い神殿に蔽われるようになった時それとわかった。 住民は(すでに接近していた)大激変ののちまでそこにとどまっていた。全土が破壊されない限り、地震による影響はほとんどない地形構造の土地。地震に因る変化が進行していても共同社会は動乱することはなかった。もっとも、人々は繰り返す地震、細かい塵の雲のため太陽が一年間もみえなくなったことに驚き、太陽は永久に消えてしまったのではないかと恐れた。 恐ろしいほどの雨が間断なく降り続け、もくもくたる蒸気と塵の雲が空を暗くした。植物はまっとうに生えず、人々は厳しい艱難(かんなん)に曝された。五年目の終わりに彼らは再び定着した。 ゴビ海の海岸に沿って約二十マイル(約32キロメートル)奥に一つの山脈が走り、ここから海岸まで低い丘がいくつも伸びていた。四つの谷がまったく別々に海まで迫っていた。マヌはこれらの谷に選出した家族を入植させ、その中から四つの亜人種を造り出して彼らを世界各地に送り出すべき指示を受けた。 このように五つのタイプが形成されることになり、初めのタイプが主で、次の四つは亜型ということになった 紀元前70,000年頃、この民は本島に植民 彼らはそこで生活して向こう数十年の間繁殖することになり、マヌは王となってシャンバラに住んだ。 数年後にマヌは若干名の最良の子どもを選んでシャンバラに送らせた。この後まもなく、トュラニア人らが次々と大軍を送り出して共同社会を襲い、ついには全滅させた。この惨禍を逃れた子どもたちの子孫が、ついには前のものよりレベルの高い華やかな文明を築き上げた。 彼らはひじょうに大きな家々を建て、絶えず彼らを脅かしたトゥラニア人たちに対して町々や村々と同様に、家々も強力に要塞化させた。 彼らは再び小さな国家を形成したが結局トュラニア人によって虐殺された。わずかな子どもたちだけがシャンバラに逃れ、育てられた。根人種としてのタイプはこのようにして保持された。 さすがの血に飢えたトュラニア人たちも白島だけは尊敬して襲撃しなかった。 マヌが選びだした700人を中央アジアに連れて行った時にアラビアに残していった者達の中からユダヤ人が生じた。 この大殺戮ののち、ポセイドニスのトルテク族の家庭に「火星」が生まれ、「火星」はマヌの娘と結婚して第五根人種に必要なトルテク族の血統を増やした。 第五根人種は紀元約60,000年前のこの日に始まり、この日に基礎が始まった。この日以来、第五根人種は二度と殺戮されることはなかった。 |
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第五根人種の首都になる都市の建設 | |
324P 橋の市 神殿はメイスンリー(フリーメイスンの英語読み)の目(プロビデンス…神の全能…の目)・シンボルが多く含まれている 神殿の建造は千年も続き、金と白大理石が多用された。玉髄(カルセドニー)の平板、メノウに似た石、ヒスイと縞瑪瑙との組み合わせが好まれた 色彩画は行われず、平面への素描も遠近法も用いられなかった 帯状装飾は高肉彫りはきわめてすぐれていた。 『白い島』と本土とは重量感のある見事な橋によって結ばれ、そのため、市は「橋の市」といわれた。 橋は片持梁構造で、ひじょうに優美な形をし、たくさんの彫像によって装飾された。人道の石は長さ160フィート(約48メートル)、幅はこれに釣り合うものだった。 紀元前45,000年に市は絶頂期に達し、チベットから海岸にいたるまで、満州からシャムに至る全東アジアと中央アジアにまたがり、そのうえ日本からオーストラリアに至る島々全体にも宗主権を主張する大帝国の首都 日本のアイヌ、オーストラリアのアボリジニにもアーリアン種族の拭いえない血が流れている これらの巨大建築は非常に美しく仕上げられ、高度に磨き上げられた。この巨大な遺跡をこんにちシャンバラで実見した人々はただただ驚嘆するのみであったという。橋はいまなお立っている。その下は水ではなく移動する砂漠の砂が流れているだけである。 アジアには数多くの都市があったが、「橋の市」はすべてにおいて抜きんでて光り輝いていた。 | |
①第一アーリア亜人種 : ヒンドゥー族(紀元前6万年) | |
328p 紀元前60,000年が少し始まった頃より、ある人口の多い王国がゴビ海を囲むように成長して、次第に周辺の多くの国民を支配するようになった。その中にはこの王国の国民の先祖たちをあれほど無残に虐殺したトュラニア人たちも含まれていた。これが最初の第五根人種の根茎である。この根茎からすべての枝すなわち亜人種が移民として岐れ出た。この根茎は普通第一亜人種といわれ、特にインドに行った植民者たちをさすためにヒンドゥー族、あるいは、ヒンドゥー・アーリア亜人種ともいわれる。移民の大集団がインドに進入し、土地を開いて占領した。この根茎の最後の残りが故国を出てインドの先駆者たちと合流したのは紀元前9,564年のポセイドニス沈没の前。 親にあたる人種は少なくとも四つの移民グループを西に送り出した。その一番目が第二亜人種(アラビア族)、二番目が第三亜人種(イラニヤ族)等々であった。 紀元前60,000年から40,000年にかけて、親人種は非常に繁栄し、紀元前45,000年頃に頂点に達した。主として蒙古人(第七アトランティス亜人種)がすんでいた中国と日本とを征服して北と東に前進し、寒冷の地でようやく前進がとまった。 第四、第二アトランティス亜人種のトュラニア人、トラヴァトリ人が住んでいた台湾とシャムをも帝国の版図に加え、スマトラ、ジャワおよび隣接の島々にも植民した。彼らはたいてい現地人に歓迎された。色白の彼らを現地人は神として見上げたからである。 セレベス島、マレー半島、フィリピン、琉球列島、東群島、パプア、等、オーストラリアに至る島々およびオーストラリア自体(当時はまだレムリア人が多数住んでいた)にまで拡がった。 マヌはこの巨大な帝国、多くの王国の宗主であった。王たちはマヌの名によって統治し、マヌは時には為すべき仕事の指示を与えた。 数十万年にわたるアトランティス文明を背景にもち、アラビアおよび北東アジアにおいてマヌのもとに数千年も過ごしてきただけに、この人種は決して原始的ではなかった。 住民全体が読み書きができ、一切の職業はマヌのためになされるゆえに、一様に尊いとされた。特に、根人種全体が同胞であるという感情、驚くほどの基本的平等、相互の礼儀正しさが涵養(…無理のないようにじっくりと養い育てる…)された。 個人の功績は正当に認められはしたが、より多くの人々を重んじ、これに感謝する気風が一般にあり、不作法な自己主張はまったく見られなかった。人々は互いに信頼しあい、善意を信じあっていた。ゆえに、争いがなかった。 自分のみの楽を求め、認められたがり、互いに不信で疑いあっていた、凝った、贅沢なアトランティス文明とはひじょうに違っていた。アトランティス時代は極端に贅沢だった。 みんなが他の多数の人々を知っていた。このことが役人になれる資格のひとつだった。 同胞感情はアーリアン族以外の、たとえば先祖、皮膚の色、文化を異にし、狡猾で、信頼のできないトゥラニア人たちまでには及ばなかった。とはいえ、外国人に敵意をもったり軽蔑したわけではない。外国を統治するにあたって残酷でもなく圧迫もしないが、それでも厳格でいくらか手荒かった。 彼らの宗教は賛歌と感謝、文明は音楽と舞踏、華やかを伴う明るく楽しいもの。太陽霊と金星を崇拝した。祝祭331p 紀元前40,000年までには帝国は没落しはじめ、離島や外辺の諸州が独立を主張した。中央部の王国文明はなお25,000年以上も栄えた。 | |
②第二アーリア亜人種:アラビア族(紀元前4万年) | |
334p (319pの)四つの谷の四つの亜人種 「橋市」に残っている人々は谷に行った人々を非常に智惠の劣った連中と考えていた。 数百年にわたって谷の人口は増え、入念に特別化された。紀元前40,000年、マヌはついに彼らを世に出すことを決めた。(320p、図45) あらゆるアラビア人達の中で新しい特徴を持っているアラビア人をアーリア化するため、彼らは祖先の足跡をついに辿ってアラビアへ。 マヌ自身が部下を引き連れ、現在のイランとメソポタミアとにあたる土地を支配していた強力な友好国より、厳重に守備された道を通る許可を得た。この移動に当たり、戦闘年齢に達した男15,000人、100,000人前後の女と子どもが一緒だった。アラブの首長は領土の辺境の荒れた谷に植民することを許可した。短期間のうちに谷は灌漑され、土地は耕され、自給自足するようになった。 アラブの首長は妬み、これまでの敵と手を組んで新参者たちの皆殺しを図ったが、マヌはこれらを打ち負かし、これらの国の支配者となった。敗れた者達はマヌのもとで前よりも暮らしがよくなったので、マヌはただちに彼らのアーリア化をすすめた。マヌは次々と無血で他部族を吸収していき、王国は栄え、強力になっていった。40年後にマヌが死ぬまでには版図はアラビアの北半分に及んだ。 南半分の種族は、自らを選民とする意識が強く、北の新しい指導者がかつての彼ら自身の指導者の生まれ変わりとも知らず、マヌの申し出を拒否した。彼らの子孫がユダヤ人である。 この長期にわたる闘争が続いている間に、大師匠(マハーグル・未来のゴータマ・ブッダ)が新しい宗教を与えた。 その頃(紀元前40,000年頃)、エジプトではアトランティスの一帝国が支配していた。同地はすでに非常に高度な文明に達し、巨大な神殿を有し、きらびやかな儀式、込み入った宗教上の教えを持っていた。 エジプト人はサイキックであり宗教的でもあった。会衆は儀式に没入した。 大師匠(マハーグル)はテフティ、あるいはトス(ギリシア人はヘルメスという)としてやって来た。内なる光の教え 336p マハーグルはエジプトからアラビアへ行き、第二亜人種にその教えを説いた。337p ユダヤ人・キリスト教 338p アラビア人のアフリカ征服 ペルシャ・メソポタミア・トルケスタンより成る大スメロ(シュメール?)・アッカド帝国衰退 ペルシャ独立 インド侵攻失敗 ペルシャとカルデアより成るアラビア帝国崩壊 第三亜人種が送り込まれ、ペルシャ帝国成立 (アラビア人より成る亜人種はセム族と呼ばれる場合もあるが、これは元来、第五アトランティス亜人種に属する名前) | |
③第三アーリア亜人種:イラニヤ族(紀元前3万年) | |
342p 第二亜人種(アラビア族)派遣以来10,000年が経過してからマヌは第三亜人種(イラニヤ族)を送りだした。その頃「橋の市」は衰えつつあったがそれでもまだ偉大なものであった。 第三亜人種の元となる人々は数世紀にわたって準備されていた。彼らは四つの谷のひとつに隔離され、第三亜人種の型がはっきり現れてくるまで待たされていた。 四つの谷のひとつに隔離された者たちの中の、アトランティス第六亜人種アッカディア人の血統 第三亜人種イラニヤ族は牧畜民 約2,000年にわたって人口を増やし、300,000人以上の戦闘員から成る軍隊を率い、ティアン・シャン(天山)山脈(タクラマカン砂漠の北)のいくつかの峠を通り、高度9,000フィートのカシュガルに至った (西へ向かった)地図は343p 図表46 二年後にはペルシャは席捲され、メソポタミアも征服された 南の砂漠、北はクルディシュ山脈(イラクの北?)に至る土地が征服され、国土が落ち着き数年間平和となったので、マヌは谷に残してきた妻子たちの大キャラバンを呼び寄せた。 数百年後には地中海からパミール、ペルシャ湾からアラル海に至る西アジア全体を支配するに至った。 同帝国は紀元2,000年前まで続いた。この28,000年間に多くの有為転変があった ある時期にはキプロス、ローデス島を支配したが、この地域(地中海沿岸)はアトランティスの勢力が強かったため戦いはさけていた また、インドと争うことも避けた。アラビアに悩まされることもあまりなかった。いずれも地形的なものである 現在の拝火教(ゾロアスター教・パルシ教)が彼らのありようの最良の見本 紀元前29,700年、マハーグル(未来のゴータマ・ブッダ)が初代ツァラトゥストラとして拝火教を創始 マハーグルの儀式 346p-347p ~火と水はあらゆるものを浄めるが故に決して汚染してはならない。水でさえ火によって浄められる。火は霊、水は体 アフラ・マヅダ:光神 霊の象徴 アーリマン:悪神 物質の象徴 マハーグルが去っても古い宗教:星(月・金星・惑星)崇拝は続いた。火は太陽の象徴として依然として聖なるものとされ、新しい宗教というより、古い宗教を包み込むものであった。次第に火信仰が強くなり、星信仰はペルシャよりメソポタミアへ後退、メソポタミアで支配的宗教となり、非常に科学的な形をとった。 ペルシャでは火の宗教が勝利し、僧侶たちはツァラトゥストラの教えを続行、ゾロアスター教とその文学は今日まで伝わっている。 |
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④第四アーリア亜人種:ケルト族 (紀元前2万年) | |
349p 紀元前20,000年ころになると、さすがの偉大な中央アジア人種も衰微への道をかなり歩んでいた。しかし第四、第五人種の種子の中に品位と活力とを保つべく留意され、彼らには特別の訓練が施された。マヌは最も洗練された家族(たち)を市から四つの谷のひとつへ移して隔離した。 想像と芸術的感受性を目覚めさせ、詩、絵画、音楽、雄弁を奨励され、それに応じる人々は農業やきつい手仕事をすることはできなかった。 芸術的才能のある人は選ばれて特別な教育を受け、またマヌは彼らが情熱的であるように、かつ自分たちの指導者に献身するよう教育した。この事業は数百年も続き、ケルト民族の以上のような特徴は今日に至るまで続いている。 谷は事実上別の一国家として経営され、あらゆる種類の芸術にいろいろな方法で奨励金が与えられた。 ところが、やがてこの亜人種(姿形は非常に美しく、教養があり、洗練された趣味をもち、多分に芸術的才能を持っていた)たちは、同じ王国内でありながら自分たち以外の土地の者を「教養のない俗物。実利主義者」と見下した。 紀元前20,000年に第四亜人種はペルシャ王国の北の国境沿いに前進し(図表46)、未開で略奪を事とする部族たちの住んでいる地域(現在のコーカサス山脈)(…黒海とカスピ海の間…)に自力で故国を獲得することを命じられた。 350p 2,000年後には結局コーカシアを除くほとんど全アジアを支配した。彼らの故国は山中で栄え、強大な国家となった。が、彼らの国はいくつにも分かれて自由な交通、通信が不可能となったので、帝国と言うより部族連合国と言った方がよい。のちに地中海沿岸に植民した人々はコーカシアを故国として思慕した。事実、コーカシアはこの亜人種が運命に向かって発つ第二の中心地であった。 紀元前10,000年までには彼らは再び西に向かって進軍、最終目的であるヨーロッパに着いた。 多くのメンバーは後に残して農耕を続けさせた。これらの者は他の人種と交婚し、その子孫でセム族の血がいくらか混じったのがグルジア(現ジョージア)人 小アジア(アジアの西端にあり、トルコの大半部を占める、地中海と黒海に挟まれた半島。アナトリア)からヨーロッパに渡った第一陣が古代ギリシア人の先祖ペラスギ人。プラトン(BC427~BC347)は「ティマイオス」「クリティアス」の中で、エジプトの僧侶たちは後期のあるギリシア人を、エジプト人より進んでいる立派な人種であると語った、と書いている。 彼らは長期にわたって小アジア沿岸地方とキプロス島、クレタ島を支配し、貿易はすべて彼らの船によった。クレタ島に立派な文明が数千年続き、紀元前2,800年にはまだ栄えていた。この文明の主な創始者はミノス、彼はこれらの古きギリシア人のひとりであり、紀元前10,000年のことである。 紀元前10,000年頃、ポセイドニス王が地中海沿岸を併合しようと大軍と大艦隊を送り込んだ。が敗北を喫した。王はギリシア人に復讐しようとしたが足許の反乱にあって結局二度と外国侵略を企てることはできなかった。 戦勝によって地中海におけるギリシア人の地位は強大となり、次の百年内には沿岸に多くの植民地を造った。このことが彼らがヨーロッパに入る最終的な原因となった。 紀元前9,564年のポセイドニス水没によって生じた洪水のため、ギリシアの植民地の大部分が壊滅、ゴビ海とサハラ海は乾燥した土地となり、最も凄惨な激変が起きた。 あまり被害を受けていなかったコーカサス山中の故国に救援が要請され、大規模な救援隊が組織された。 サハラ海の底が隆起し、エジプトとチュニジアとの間(トリポリのあたり)から海水が流れ出し、ギリシア人が植民していた沿岸地帯は壊滅した。 船舶はほとんど全滅したにもかかわらず、ギリシア人は数年後には小アジアの港の機能を回復、新しい船舶隊が出港して再び植民地が打ち立てられた。地中海は事実上、数世紀にわたってギリシアの海であった。彼らは交易を東にも進め、ジャワにも植民地を建てた。 のちにフェニキア人(セム族とアッカディア族より出てきた第四亜人種)とカルタゴ人(アラブ族と混血したアッカディア族)とが地中海貿易をギリシア人と分かつようになった。 第四亜人種ケルト族のヨーロッパへの移民 第一波:ギリシア人 第二波:アルバニア人 第三波:イタリア人 しばらく間を置いて、驚くべき活力をもつ第四波がやってきた。人種学者のいうケルト族である。彼らはイタリア北部、フランス及びベルギー全土、イギリス諸島、スイス西部、ライン以西のドイツに亘る有力な部族となった。 第四波:ケルト族 われわれの「古代歴史」におけるギリシア人は第一波より発生し、第二、第三、第四波の植民者と交じり、北よりやってきてギリシアに定着した第五亜人種の血の混じった混血児である。ギリシャ人に時折見られる、稀有にして称賛される金髪、碧眼はこのようにして生じた。 このあと、第五波との間に一種族がアフリカ北部で行方知れずになっている。わずかにその痕跡がバーバー人、ムーア人、カバイル人の中に見られる。 第五波:第四波とスペイン半島で混じり、のちの段階、すなわちわずか2,000年ほど前にアイルランド人を造り上げた多くの要素の中の最後の要素となった。というのは、その前に別の要素がアイルランドに入っている。 小アジアを出、北西部に向かってスカンジナビアに至り、そこで第五亜人種チュートン人とある程度混血した第六波の一部。彼らは北からアイルランドにやって来て、歴史ではトゥアハ・デ・ダナーン人といわれ、「人間以上の神々」といわれる方が多い。 卵型の顔に明るい皮膚の色、髪色は濃く、深い青か菫色の目をした端正な容貌の持ち主であった。彼らはまたアイルランドの混血種族より知的、霊的にはるかに進んでおり、彼らが統治していた時代は一種の黄金時代であった。イングランドは深い森林におおわれ、比較的野蛮な状態だったが、アイルランドは疑いもなく高度の文明の座であり、哲学の中心であった。 マイレシウス人(頑強な肉体、低級魔術について明るい)がスペインからやって来てトゥアハ・デ・ダナーン人を征服した。 事務的で無神経なアングロ・サクソンと、想像力に富み、詩的なアイルランド人との間には非常な差がある。 イングランドの平均的農民はほとんど物質界層で生きているが、西部および南部のアイルランド人の平均的農民はアストラル界層での生活の方がずっと多い。彼の思いは遥か彼方にあって過去の伝説、聖人、天使、妖精たちの物語でしめられている。 アイルランド人が一般に貧しく栄えないのには理由がある。マイレシウスの子孫たちがこの種族に魔術をかけ、大いなる幻影の虜にしたのである。彼らの僧侶たちはこの国を、磁化したセンターの網で覆った。それは現在でさえ強い影響力を持っている。あるタイプの自然霊が依然として群れをなしてこれらのセンターに抵抗のできない力で引きつけられ、その影響の中に浸かり、知らず知らずのうちにその手先となり、彼らの行く先々にその影響力を拡げていく。この魔術は二重構造になっている。すなわち、分裂と無気力。有効な団結が決してできず、内輪喧嘩ばかりさせることと、磁力をふるう者、あるいはそれを受け継いだ者には無気力に従わせることである。意識的にしろ無意識的にしろ、ローマカトリック教会がこの遺産を継ぎ、今に残る昔からの魔力によって得をしている。そのため管轄区域全体を通じて教会の支配はゆるぎもしない。 全体として第四亜人種ケルト族は褐色または黒色の髪と目、頭は丸く、丈は普通高くない。想像力に富み、雄弁、詩と音楽を好む 指導者に対して情熱的に献身し、挫折した場合はすぐに気落ちするが、一般には見事なまでに勇敢である。しかし商売気質には欠け、真理に対する関心はあまりない 紀元前9,564年の大激変ののち、何名かの古代ギリシア人がヘラスに植民しその土地を占領した。現在アテネとなっている土地に最初の都市が紀元前8,000年に造られた。 我々の歴史に出てくるアテネは紀元前1000年に始まり、パルテノンは紀元前480年に建てられた。 マハーグルはこの地にオルフェウスとして現れ、オルフェウス秘儀を創始した。彼は紀元前7000年前に来て、弟子たちと森林に住み、自然の生活を愛した。357p のちのギリシア秘儀はこれより派生した。 いつも五音琴を持ち、五音音階を用いた。彼は、音によって弟子たちのアストラル体とメンタル体とに働きかけて、それを浄化したり拡大したりした。メロディによって働きかけた。そのメロディは各チャクラ固有のもので、それぞれのチャクラを働かせることができた。 彼はあらゆるものに音があり、もしも人間が自分自身を調和の状態に保つなら、聖なる調和が彼を通じて顕現し、全自然が歓喜すると教えた。 マハーグルは次々とヴィヤーサ(太陽)、ヘルメス(光)、ツァラトゥストラ(火)、オルフェウス(音)として現れ、共通して生命はひとつ、愛はひとつという教えを与えた。その後、約7,000年後、彼の民に最後に現れ、ブッダとなった。 | |
⑤第五アーリア亜人種:チュートン族 (紀元前2万年) | |
紀元前20,000年、第五亜人種が第四亜人種と同時に準備されつつあった。ゴビ海の北、「橋の市」より遠く離れたある谷の中に隔離された。マヌはペルシャで育成した最良の者若干名とアラビアから少数のセム人をその中に導入した。 長身、色白の者の中にマヌ自身が化身 (彼自身が選んでまとう肉体が亜人種の相貌を主として決定する) 第五亜人種は筋骨たくましく、活力に富み、第四亜人種よりずっと体が大きく背が高く、色白、長頭、金髪、碧眼 ケルト族と非常に違った特徴(強情、根気強い)を持ち、第四亜人種の気質をほとんど残さなかった。その美点は芸術にあるのではなく、実務的、常識的、武骨、誠実、率直、具体的なものに関心をもつところにあった。 第四亜人種ケルト族と第五亜人種チュートン族は終局の運命はまったく異なるが、それぞれの谷を一緒に出て(紀元前20,000)一緒にペルシアを通過した。360p図47 第五亜人種はカスピ海沿岸を移動しダグヘスタンに定着、数千年かけて成長しコーカサス山脈(カスピ海と黒海の間)の北斜面に沿って進展、テレク地方とクバン地方とを占めるようになった。人種としては地方によっていくつかの型に分かれ、紀元前9,564の大激変の約1,000年後、世界支配に向かって大進軍を始めた。 移民たちは北西に進路を取り、ポーランドのクラカウ(…=クラクフ 11世紀の中頃から16世紀末までは、ポーランド王国の首都として栄えた…)に数百年間とどまった。最後の複数の放射が始まったのはここからである。 第一波はスラブ人。東と西に移動。現代のロシア人は主としてその子孫。 他の隊は南に移動し、現代のクロアチア人、セルヴィア人、ボスニア人の祖となった。 第二波はそれほど遠くへは行かず、子孫はレット人、リトアニア人、プロシア人 第三波はゲルマン人、特に南ドイツに広がったチュートン族で、他の者は北に移動し、ゴート人、スカンジナビア人となった。 現代史を調べると我々は、スカンジナビア人の子孫がノルマンディーに、ゴート人の子孫が南ヨーロッパに、第五亜人種チュートン族がオーストラリア、北アメリカ、及び南アフリカに拡がり、第五 根人種の根幹が定着したインドにおいて特に支配的である相を見る。 361~362p アトランティス根人種の聖語はタウ Tau アーリア根人種の聖語はオム Om 各根人種に次々と割り当てられる聖語はある一語の一音節であって、その全体が真の聖名である 各根人種はそれぞれ独特の時室を持ち、それを展開していく。第五根人種の特質はマナスすなわち心、すなわち識別し、物事の相違に注目するタイプの知性である。マナスが完全に発達すると相違点が冷静に識別され、完全に理解され、そのうちの最良のものを判定しうるようになる。 現在の我々が位置している発達段階の半ばでは、理解のためより反対のため、自分たちと異なった意見の者は虐待するために、たいていの者は相違点を探している有様である。このような初歩段階はもちろんいずれは越えられていくであろう。 | |
⑥第六アーリア亜人種:○○族 (――) | |
世界の各地に出現開始 | |
⑦第七アーリア亜人種:○○〇族 (――) | |
未だ出現していない |
神智学大要 引用原書:
アニー・ベサント 変化する世界
アニー・ベサント インティテーション、人間の完成
アニー・ベサント 人間の血統
アニー・ベサント 人間の7つの原則
アニー・ベサント 神智 学
Besant & Lead オカルティズムの道についての話
C.W.リードビーター アストラルプレーン 邦題「アストラル界」
C.W.リードビーター デバカニックプレーン
C.W.リードビーター 物事の隠された側面Vol.1
C.W.リードビーター インナーライフ Vol.1、2
C.W.リードビーター マスターズとパス 邦題「大師とその道」
A. P. シネット ピラミッドとストーンヘンジ
http://mahorobanomori.web.fc2.com/spiritual-ShinchigakuTaiyo-inyou.html
トルケスタン:「テュルク人の (Turki) 土地 (-stan)」を意味するペルシア語に由来し、テュルク諸語、欧州諸語などで用いられている[1])(テュルク系民族:人種的には東部でモンゴロイド、西部でコーカソイドと東西で大きく異なるが[4]、人種に関係なくテュルク諸語を母語とする民族は一括してテュルク系民族と定義される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AF%E7%B3%BB%E6%B0%91%E6%97%8F
ゴビ海:ゴビ(モンゴル語: Говь, Govi)とはモンゴル語で「沙漠、乾燥した土地、礫が広がる草原」などを意味し、「ゴビ砂漠」は「乾燥砂漠」という畳語表現だが、日本では「ゴビ砂漠」で定着している。中国においては古くは秦朝の頃から"大漠"と史書に記されている。瀚海(かんかい)とも言い、瀚海沙漠、戈壁灘、戈壁(音読み:かへき)沙漠とも表記される
シャンバラ:『時輪タントラ』に説かれる伝説上の仏教王国。同タントラではシャンバラの位置はシーター河(…シル・ダリア川?…)の北岸とされ、シーター河が何を指すかについては諸説あるが、中央アジアのどこかと想定される
語源はサンスクリット語で「(幸福を)維持(もしくは用意、収集、養育)するもの
※シャンバラはエーテル界に実在し、未来において人類にエーテル視力が発達した暁に、人類は直接これを視うるようになる。
高肉彫り:金属板に浮彫をする肉彫 (ししぼり) のうち,肉の厚いものを高肉彫,薄いものを薄肉彫という。厚手の金属を文様を残して地の部分を彫り下げ,高肉の浮彫にする
片持梁構造:
カンティレバともいう。通常の梁はその両端で支えられているのに対し,その一端が固定され他端が持出されて自由な状態にある梁のこと。建物の軒先や玄関の庇などに使われることが多い。壁面または柱より突出し,その突出部は支える柱を必要としないため,下部に開放された空間 (軒下) をつくる。片持ち梁は同じ長さの通常の梁よりはたわみやすく,また,片持ち梁のどの部分をとっても,梁の上端は引張り力,下端は圧縮力を受けた状態になっている。このため鉄筋コンクリート構造の片持ち梁においては,梁の上端に必ず鉄筋を配置する。片持ち梁に生じる応力は,梁の先端から根もとに向うほど大きくなるので,梁の断面を根もとで大きくし,先端部で小さくすることが多い。
宗主権:従属的な国家結合の一形態である付庸関係において,宗主国が従属国に対して有する権限
パミール:この高原から東北に向かって天山山脈、南方に向かって崑崙山脈、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈、西南に向かってヒンドゥークシュ山脈が伸びており、「世界の屋根」と呼ぶにふさわしい地形
ケルト民族:中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族)
サハラ海:(サハラ砂漠はアフリカ大陸北部にある砂漠で、氷雪気候の南極を除くと世界最大の砂漠である[1]。南北1,700キロメートルにわたる。面積は約1,000万平方キロメートルであり、アフリカ大陸の3分の1近くを占める)
ヘラス:古代ギリシア人が自己の民族の総称として用いた名称。その住む国土はヘラスhellasと呼ばれた。ホメロスやヘシオドスの詩で,まず〈パンヘレネスpanhell?nes〉という語が用いられ,やがて〈ヘレネス〉だけでギリシア民族を指し,異民族を指すバルバロイと対立する概念となった
まとめ
紀元前八万から七万年の間に、ポセイドニス北部ルタからセム族主体の九千人が移動。エジプトを経由、アラビア高地にある期間定着。
その後七百名を選び、北方へ出発、トルコ、ペルシャ、チベットを経由し、ゴビ海に達する。大激変(アトランティス大陸最初の大破局)を経たのち、ゴビ海岸に沿った山脈の四つの谷に選出された家族が入植。
この後、トゥラニア人が共同社会を襲うことを繰り返し、入植者は町、村、家を強力に要塞化して対抗した。家はひじょうに大きかった。
第四(アトランティス)根幹人種・第五亜人種・セム族より
紀元前七万五千年の最初の大破局の前に、原セム人はアトランティス大陸から移住した。
マヌの指導のもと、原セム人たちは中央アジアやモンゴルまで移動し、そこでそれら諸人種のための新たな種まきをした。
紀元前七万五千年モンゴルまで移住したセム族は、トゥラニア人の襲撃によって幾度も絶滅しかけながらも、一万年以上かけて人口を増やし一大帝国を築き上げた。帝国は紀元前四万五千年に絶頂期に達し(…このころ中国と日本には第七アトランティス亜人種モンゴル人が、台湾には第三アトランティス亜人種トラヴァトリ人が住んでいたが、帝国に征服された…)、やがて衰退。離島や外辺の諸州が独立。それでも中央の文明は二万五千年以上栄えた。
移動地図
第一アーリア亜人種・ヒンドゥー族(紀元前6万年)
第二アーリア亜人種:アラビア族(紀元前4万年)
第三アーリア亜人種:イラニヤ族(紀元前3万年)
第四アーリア亜人種:ケルト族 (紀元前2万年)
第五アーリア亜人種:チュートン族 (紀元前2万年)
第六アーリア亜人種:○○族
第七アーリア亜人種:○○〇族
ケルト族とチュートン族は同じ時期にゴビを出た。
時系列
前期旧石器時代(英語: Lower Paleolithic/Early Stone Age、約260万年前 - 約30万年前)
クラクトン文化(約30万年前 - 約20万年前)イギリス・イングランド中心
中期旧石器時代(英語: Middle Paleolithic/Middle Stone Age、約30万年前 - 約3万年前)
ムスティエ文化(約30万年前 - 約3万年前)北アフリカ、ヨーロッパ、近東、シベリア、アルタイ
後期旧石器時代(英語: Upper Paleolithic/Later Stone Age、約3万年前 - 約1万年前)
オーリニャック文化(約3万8千年前~ 約3万6千年前)フランス・ピレネー地方
シャテルペロン文化(3,6万年前~3,2万年前)フランス中部
グラヴェット文化(3,3万年前~2,4万年前)ロシア平原~クリミア山脈付近
ソリュートレ文化(1,7万年前)フランスからスペインにかけて
マドレーヌ文化(ヴュルム氷期の第2期後半)フランスを中心に、スペイン、イギリス、西ヨーロッパの広範囲
ハンブルク文化(英語版)(1,2万年前~9千年前)ドイツ,ハンブルク近くのマイエンドルフ遺跡を標準遺跡とする
アーレンスブルク文化(英語版)(上部旧石器時代)ドイツ、ハンブルクの北東
スウィデリアン文化(英語版)(?)現代のポーランドの地域に集中
マリタ遺跡(約二万三千年前)シベリア旧石器時代を代表する遺跡
ギョベクリ・テペ(紀元前1万1000年以前)アナトリア南東部
アトランティス文明は衰退。アトランティス大陸は最後の大激変前。
ユーラシア大陸は? 北部はモンゴル族(トゥラニア人の末裔なので、大規模な建築技術をもたない)、南部はヒンドゥー・アーリア亜人種