八島湿原


日本の旧石器時代

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/hyouga/h.htm


 後期旧石器時代初頭から、日本列島には人類が常に住み続けてきました。気候的には最終氷期で最も寒冷で乾燥した不安定な大陸性気候であったと言われています。今日の乾燥したロシア極東の気候風土のように、北方系の針葉樹林が列島を広く覆う植生環境でありました。ただ寒冷ではあるが安定した気候であったため、意外に居住を容易にしたと考えられています。
 日本の旧石器文化の始原は、岩手県金取(かねどり)遺跡・長野県野尻湖立が鼻(たてがはな)遺跡・同県竹佐中原遺跡・長崎県福井洞窟その他の出土資料で、現時点では9万年前に遡る年代に漸く近づきつつあります。
 後期旧石器文化の4万年前頃に、砕くだけでガラスのように鋭利になる黒曜石が、人類に多大な恩恵を与えました。その打製石器は時の経過につれ技術的が向上し、ただ単に、石を砕き割っただけの礫器(れっき)から、薄く鋭利で用途も多岐な剥片(はくへん)石器を加工しました。
 剥片石器・加工した石の中央部を利用した石斧(せきふ)などの石核(せっかく)石器へ進化し、磨製石器へと自ずとつながります。石斧は樹木の伐採と加工、さらに動物の解体などと型式は細別されていきました。

 氷河期のいつ頃から日本に人類が住み始めたのでしょうか?
 日本の更新世(170万年~1万年前)は、火山活動が活発な時期です。関東ローム層に代表される火山灰層を堆積させて、強度の酸性土壌を形成しました。更新世末期、氷河期が終結し暖流が流れる日本海ができ、日本列島が形成されると、多雨となり石器は保存されますが、人骨・ 骨器・木器・鉄器などは、全て腐食して残りません。一方、高燥台地八島高原から次第に八島湿原が形成されていきます。
 日本列島の旧石器文化は、主に3万5千年前から1万8千年前を中心に置くナイフ形石器文化が大部分を占めています。この石器は形状から便宜的に命名されましたが、用途としては槍の穂先とみる説が有力です。石刃を素材にしたユーラシア大陸の後期旧石器時代石器群と共通性があると言われる一方、日本列島の石刃石器文化がナイフ形石器のみが主体となっている傾向から、ヨーロッパやシベリアと同質とはいえないといわれています。

 昭和58(1983)年に行われた群馬県伊勢崎市下触牛伏(しもふれうしぶせ)遺跡の発掘調査によって、直径50mにも及ぶ巨大な円形のムラの跡、「環状石器ブロック群」が初めて明らかになりました。出土した石器の調査から数十mも離れて発見された石器同士が接合することが判り、遺跡が同時期に造られたことも証明されました。今から約3万5千年前から2万8千年前ころの、それまで類のない規格的で巨大な旧石器文化の遺構でした。
 長野県日向林(ひなたばやし)B遺跡、千葉県池花南(いけはなみなみ)遺跡などでもあいついで発掘されました。多数の石器ブロックが最大径80mに及ぶ規模で環状にならんでいる、やがてナイフ形石器文化前半期の特徴として、大形環状ブロック群の形成があげられるようになりました。集落跡の可能性が高まりました。この集落の多くは磨製石斧を伴っています。同時期の落し穴遺構と密接な関係が想定されるようになりました。
 また長野県の霧ヶ峰ジャコッパラ・茅野市城ノ平、静岡県の箱根と愛鷹山麓などの落し穴遺構の発見は、旧石器文化時代の狩猟活動の一端が明らかになりました。環状石器ブロック内に居住する数家族が一集団となって、ナイフ形石器を槍の穂先に装着し動物を落とし穴に追い込む「集団による追い込み狩猟」です。下触牛伏遺跡の発掘などにより、大きな環状石器ブロック群内で同時に100人を超える多くの人々が生活を共にしているムラ社会が形成され、その目的が ナウマンゾウ・オオツノシカなどの大型動物の「集団による追い込み狩猟」にあったことが分かりました。
 後期旧石器時代に通有の生活址を遥かに超えるスケール、今から約3万5千年前から2万8千年前ころの大規模な環状集落は、シベリア系マンモスや中国北部系ナウマンゾウ・オオツノシカ等の大型獣を捕獲する落とし穴追い込み猟と、外敵熊・狼、備蓄する捕獲物をあさる狸などに対する備えだったのでしょうか?
 環状石器ブロック群・磨製石斧・落し穴遺構は、ユーラシア・アフリカ大陸の旧石器時代には、殆ど類例を見ません。ナイフ形石器文化も日本列島を始原として発達した文化で、薩南諸島の奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡や火山灰層から3万1千年前であることが明らかな種子島の立切(たちきり)遺跡から、未だナイフ形石器は発掘されていませんが、磨製石斧が出土していますから文化的広がりが予見されています。

 沖縄では、アルカリ性の石灰岩地帯が多いので人骨が出土しています。沖縄県那覇市山下町第一洞穴で、後期更新世(12万6千年~1万年前)の時代の人骨が出土しました。国場川に面する石灰岩丘陵の中腹で、昭和37(1962)年、昭和43(1968)年に発掘調査が行われました。
 この遺跡からは、鹿の骨や角の化石とともに8歳程度の女児と推定される人骨の一部が出土しました。今からおよそ3万2千年前、旧石器時代の 国内では最古級の人骨でした。 この人骨発見により、日本列島に後期更新世後半の人類の存在が明らかにされました。東アジア間の 人類の移動または進化を探る、最も重要な資料とされています。
 3万5千年前からつづいていたナイフ形石器にかわり、北海道や東日本で細石刃(さいせきじん)と呼ばれる細長い石器がつくられるようになりました。細石刃は尖頭器の替え刃であったようです。木や骨に溝をほり、そこに黒曜石などで作った小さく鋭い石刃を一列にさしこむ大きな刃をもつ鎌(かま)、投げ槍や突き槍の穂先の替え刃としたようです。このような高度な替え刃式の組み合わせ道具の登場は、石器文化が円熟期を迎えたこと示します。とくに北海道で、シベリアからの影響をうけて成立した細石刃剥離技術の一つ湧別技法(ゆうべつぎほう)のほか、次第に独自の多様な細石刃製作技法が考案されていきます。細石刃文化は、1万8千年前ごろからシベリアからサハリン・北海道を経由し、その過程で独自の製法が積み重ねられ本州各地に広がっていっきました。








Home contents ←Back Next→