八島湿原


氷河期の日本人の足跡を、旧石器遺跡で探しました

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/hyouga/h.htm


 長野県は日本列島の地質構造を大きく区分するフォッサマグマ地帯の中央にあり、本州を構築する脊梁(せきりょう)地帯を中断する、南は諏訪湖を源流とする天竜川から静岡県浜松へ、八ヶ岳の南麓をながれる釜無川が富士川となり富士市と静岡市清水区との境で太平洋へ、北には車山連峰と八ヶ岳などを源流とする千曲川・信濃川と青木湖を源流にする姫川・糸魚川が内陸盆地を連ね日本海に流れ下ります。
 美ヶ原から特に三峰山・鷲ヶ峰・車山・八子ヶ峰等の車山連峰は、本州の中心であり代表的な分水嶺であります。北では北陸・東北地方、東は関東地方、西は近畿地方、南は東海地方へと八島湿原周辺の黒曜石文化が伝播されました。無限ともいえる黒曜石を中心とした採掘・加工・流通が、遺跡の発掘実績の限界5万年前の前後から開始されていました。車山連峰など標高千5百を超える高冷地に黒曜石が露頭していました。特に八島湿原周辺に広がる長和町和田峠、東餅屋、男女倉、鷹山星糞峠、下諏訪町星ヶ塔・星ヶ台、東俣などが信州系黒曜石の大規模な原産地です。車山南麓のおよそ3万8千年前から2万8千年前頃と推定されている池のくるみ及びジャコッパラなどの黒曜石遺跡からは、ナイフ形石器文化初期を代表する台形状のナイフ形石器や局部磨製石斧が出土しています。
 八ヶ岳の茅野市冷山(つめたやま)、佐久穂町麦草峠、大石川上流、双子池などと、浅間山南東麓の軽井沢町長倉の大窪沢などが黒曜石の原産地として知られています。
 日本国内では、約5千を優に超える旧石器時代の遺跡が、確認されています。 特に旧石器時代の石器群が濃密なのが長野県の「野尻湖遺跡群です。立が鼻湖底遺跡も含めて、野尻湖の西岸からその南側の丘陵地帯は、遺跡密度が非常に高い地域で、旧石器時代から縄文時代草創期までの遺跡が集中しています。 現在までに明らかにされている遺跡は39ヵ所もあり、これらを一括して「野尻湖遺跡群」と呼んでいます。ナウマンゾウ狩りで知られている野尻湖底の立が鼻遺跡は、現時点で、約5万4千~3万8千年前の日本の一番古い旧石器文化の存在を証明しています。 また「野尻湖遺跡群」は、縄文時代草創期までの遺跡が、ほほ途切れることなく続き揃っています。つまり最終氷期の、なかでも約5万4千年前以降の人類の歩みがほぼ連続して記録されている重要な遺跡群です。骨製クリーヴァー(ナタ)・骨製スクレイパー(皮剥ぐ)・骨製尖頭器・骨製ナイフ・骨製槍の穂先等の骨器、安山岩製の微細剥離痕のある剥片・ナイフ形石器・石核などの骨器・石器が、ナウマンゾウ・オオツノシカなどの大型動物化石を伴い出土されています。その出土した骨の接合状況、産出する哺乳類化石の殆どがナウマンゾウであった事から、ナウマンゾウの狩猟解体場遺跡とみられています。現在、「野尻湖遺跡群」に先行する石器群は、飯田市にある竹佐中原遺跡(たけさなかはらいせき)と石子原遺跡(いしこばらいせき)があります。
 「野尻湖遺跡群」の年代約3万8千から3万2千年前までの信濃町貫ノ木遺跡・日向林(ひなたばやし)遺跡・上ノ原遺跡・大久保南遺跡などでは、環状ブロック群を伴う大規模遺跡が多く発掘されています。諏訪市霧ヶ峰のジャコッパラ遺跡も同時期です。

 信州の山深い地に、なぜ、これほどの人々が集まってきたのでしょうか。

「野尻湖遺跡群」のその秘密は、氷河時代には多くの湖沼が野尻湖のまわりに点在していたことにあります。これらの湖沼は、黒姫山のはげしい火山活動に関連して、生じたものでした。大量のマグマの噴出は、その大地を陥没させ、そこに周囲の山岳地帯に降り注ぐ雨水が流れ込み、水辺を生みます。ナウマンゾウやヤベオオツノシカなどの大型の草食獣は、氷河期の乾燥した寒冷期、水浴びをしたり草食するための水辺に集中したのです。旧石器時代の人類は、動物を追って移動していた狩人で、格好の狩猟の場となった野尻湖やまわりの湖沼に集まって来ました。
 野尻湖の立が鼻遺跡では、約5万4千~3万8千年前までの地層中から、ナウマンゾウやヤベオオツノシカなどの化石と一緒に、それらの動物を解体したとみられる骨器や石器などが出土しています。その研究から、この時代の旧石器人類が、ナウマンゾウなどの大型獣を狩猟し、そこで大量に解体して生活していた事が明らかになりました。
 このような大型獣を解体した跡を残している遺跡は、旧石器時代では、世界的にも僅かな例しかありません。それで、立が鼻遺跡に代表される文化を、特に野尻湖文化と名付けてられました。また野尻湖文化の時代は、旧人から新人への移行期にあたります。野尻湖文化の担い手は、旧人か新人か? あるいは同時代に生存し、その関わり合いはどうであったのか? 野尻湖文化の研究は、この移行期の解明の観点からも注目されているわけです。
 立が鼻遺跡からは、石器・骨器・木質遺物などが出土しています。石器の多くは、質の良くない粗粒な安山岩で、幅広で寸詰まりです。骨器の出土は、数が少ないのですが、すべてナウマンゾウの骨を加工して作られています。骨の剥片に大・中・小といった程度の違う剥離をほどこし、何度も加工して丁寧に作られています。骨器の加工には、石器も使われたのでしょうが、ナウマンゾウを解体し、その皮を剥いだり、肉を切ったりする重要な道具の多くは、骨器が中心で、ナウマンゾウの骨で作った骨器を、主要な道具として使っていたとみられています。
 打製骨器ばかりで磨製骨器といたものはなく、大きな骨を打ち割って、骨の剥片をつくり、さらにそれを、たたき石で打って剥離し、細かい仕上げ加工をする方法だったでしょう。石器にも刃の部分を研いだものはありません。骨器も石器も、つくり方としては非常に古いタイプの物です。  








Home contents ←Back Next→