縄文時代の地域的特性


上野原遺跡の消滅

転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/jyoumon/


 7,300年前に、九州地方に鬼界カルデラの大噴火の猛威が襲い、その恵まれた自然と、それによって育まれた縄文人の文化施設の全てを破壊し尽くした。その後九州地方の縄文文化の担い手は、歴史から姿を消した。それどころか南九州地方は、その間無人状態になる。
 鬼界カルデラは、鹿児島県南方の薩摩竹島と薩摩硫黄島を陸上の縁の一部とするカルデラで、噴火後そのほとんどが海中に沈んだ。縄文の早期初頭の異彩を放つ輝きは、九州地方では消滅するが、南九州の文化を特徴づける円筒形で刃部が丸ノミ状の磨製石斧が黒潮の流れに沿って、高知、和歌山、八丈島の各地の遺跡で出現している。大噴火後、かろうじて生き延びた人々が、ある者は陸路を九州中部、北部へと、又ある者は黒潮と共に日本列島各地へと広がっていき、その地域の人々に同化し、新たな縄文文化の担い手となっていったものと考えられている。縄文時代草創期の12,000年前の「丸ノミ形石斧」が、南さつま市加世田の栫ノ原遺跡から発掘され、「栫ノ原型石斧」と呼んだ。用途は木材伐採や加工だが、特に「丸木舟」の製作に使われたようだ。

 草創期から早期にかけて縄文時代をリードして来た南九州の縄文文化は、大災害により壊滅した。当時、温暖化による縄文海進の最中で、近畿地方以西の植生が、やがて常緑照葉樹林帯にかわる過程にあった。
 その食料供給力は落葉広葉樹林と比べて著しく低い。その農耕文化の形態としてサトイモ・ヤマイモなどの栽培がある。しかしうっそうと茂る照葉樹林の再生力は強盛で、集落を営むため切り開いても直ぐに繁茂し呑みこまれてしまう。一年中、台地に日光が届かず、人を含む動物に有用な草本類が育ちにくい。
 常緑性樹木の果実は貧弱だが、落葉性ブナ科植物の果実は、子葉を守る種子として肥大化し大量のデンプンを蓄え、また生産量も多い事から、特に哺乳類にとって、秋の重要な食料であり、ドングリの出来不出来が、森に棲む人類や野生動物の秋から冬以降の生存に大きな影響を与えた。その結果、縄文時代のこの時期を境にして、西日本の人口は伸び悩み小規模の集落が長く続き、他方、東日本には落葉広葉樹林が繁茂し縄文時代前期から中期にかけて定住化が促進し、拠点的大規模集落が発展した。
 この環境変化に加え、7,300年前に、九州地方に鬼界カルデラの大噴火の猛威が襲い、九州から本州の大半を被うアカホヤ火山灰の存在にも示されるように、九州地方の全ての文化施設を壊滅させた。"東高西低"と言われる縄文遺跡分布の片寄りは、実はこのような過程で生み出された。ただの気候環境の変化程度であったら、九州縄文人も対応しえたであろう。約11,000年前の桜島を起源とする大噴火には耐えてきたのだが……
 この大噴火による火砕流と火山灰は、大隅半島と薩摩半島の南部を覆い尽くし照葉樹林を壊滅させた。その後はススキ属が繁茂する草原となった。おそらく600年間は照葉樹林は復活しなかったようだ。
 上野原台地は、ようやく、よみがえり、その南側では、縄文前期6,000年前の落とし穴と炉跡とみられる礫石遺構もみられた。縄文時代後期(約3,500年前)には、台地南側の斜面に近い場所からは、深さ2mから3mのおとし穴が長さ約400m,東西方向に2列ならんでみつかり、集団で動物を追い込む狩り場だったようだ。
 縄文時代晩期(約2,500年前)には、台地の北側がおもな生活の場となり、竪穴住居跡や掘立柱建物跡などが発見された。建物の周辺にはドングリなどが入った「貯蔵穴」があり、再び森からの恵みを受けている。
 弥生時代中期~後期(約2,000年前)、台地北側には、東西約500mの範囲にムラが営まれ、竪穴住居跡5軒や掘立柱建物跡2棟、長さ100mの柵列も発見された。またイネの植物の痕跡やモモの種も見つかっている。
 古墳時代(約1,600年前)、竪穴住居跡1軒、中世は掘立柱建物跡8軒、戦後はイモなどの耕作地になっている。

  上野原遺跡は、県の逸早い判断によって現地保存が決定された。その背景には、なかなか企業誘致の進まないテクノパークの現状と、近年の考古学ブームに便乗して遺跡を「観光の目玉」としようとする思惑とが絡んでいたようだ。








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