Mesoamerica

エル・ミラドール

エル・ミラドール:現在のグアテマラ、ペテン県北端の国境付近のジャングルの中にあるマヤ文明の遺跡。本来の名称は、不明である。主として先古典期後期に繁栄した。
この遺跡が最初に発見されたのは、1926年であり、1930年に航空写真で撮影された。しかし、イアン・グラハムが1962年に10日間かけて地図を作成するまでは、うっそうとしたジャングルの奥深くにあったために、ほとんど注目されてこなかった。詳細な調査は、1978年にBruce DahlinとRay Mathenyの指揮するプロジェクトから始まった。考古学者たちは、エル・ミラドールがティカルやワシャクトゥンのような古典期の大都市とは、同時に建てられたものではなく、さらに数世紀も早い先古典期の時代に建てられた都市であったことに驚かされた。エル・ミラドールが繁栄し始めたのは、およそ紀元前10世紀からであり、全盛期は、紀元前3世紀から紀元後2世紀にかけての時期で、人口は8万人に達したと考えられる。その後は建設活動が行われず、幾世代にわたっていったん放棄された形になったが、再び古典期後期になって人が住み始め、最終的に放棄されたのは9世紀の終わりごろである。
エル・ミラドールは、面積16km2に及んで、大きいけれどもあまり高くない基壇の上に築かれた三つの階段状ピラミッドの組み合わせが多数分布する遺跡である。 そういった構造の建造物のうち、もっとも著名で、巨大な建築複合が2つ挙げられる。ひとつは「エル・ティグレ」と呼ばれるものである。「エル・ティグレ」の最も高いピラミッドは、55mに達する。もう一方は、「ラ・ダンタ」と呼ばれていて、最も高いピラミッドは、70mに達し、マヤの建造物の中では最も高い。加えてこのピラミッドが載っている巨大な基壇の底辺は18000m2に達する壮大なものである。エル・ミラドールの建造物の大部分のものは、切石を組み合わせて建てられており表面は漆喰で象られたマヤの伝説上の神々の顔で飾られている。 他には、モノス(高さ40m)などの巨大なピラミッド建築複合がある。石碑が多く残されているが、絶対年代を決定できる長期暦は、刻まれていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB


エル・ミラドールは、1926年にメキシコ国境に近い低地グァテマラ北部・ペテン地方のジャングルで偶然発見されたマヤ遺跡です。1930年には航空写真でも撮影されましたが、一般に知られることはありませんでした。30年代には大西洋単独無着陸飛行のチャールズ・リンドバーグを含め、たくさんのパイロットたちがこの上空を飛行しましたが、皆それを石灰岩の低地に出現した火山かと思い、驚きの報告をしています。あまりにもうっそうとした密林の奥深くに、しかもペテン低地地方の中でもさらに低い湿地帯(のちにミラドール低地帯と名づけられます)に位置していたため、1962年にハーバード大学のイアン・グラハムが部分的な発掘を行い、大ピラミッドをはじめとした、この古代都市の輪郭が朧げにわかってきて地図が作られるまでは、ほとんど人々の関心を集めませんでした。
 エル・ミラドールは、ティカル観光の拠点フローレスの北100㎞の距離ですが道路は整備されておらず、現在も徒歩で2日間かけて、チクルの木(天然ゴム)や、マヤ古典期に貴重な栄養源だった高さ45mにも及ぶラモンの木(ブレッドナット)が生い茂り、メガネフクロウ、オオハシ(大嘴)、シマクマゲラ、クモザル、ホエザルたちが暮らす熱帯雨林を越えて行かなければなりません。  遺跡の年代決定は研究者たちを悩ませました。当初はマヤ古典期の遺跡と考えられていました。問題は古典期(後250年~900年)の中でもそのいつ頃なのかということだったのです。古典期に先行する先古典期(前3000年~後250年:当時は形成期と呼ばれていました)には高度な神殿や洗練された建造物は造られていないというのが定説でした。グラハムたちは1970年にエル・ミラドールで集めた土器を調べ、その大部分がチカネル土器[注1]という先古典期を代表する土器であることは確認していました。しかしどうしても、パイロットたちが火山と間違えてしまうようなマヤ文明の記念碑的偉業ともいえる大建築群が古典期最盛期よりも700年から1000年も前に造られたということを信じることはできませんでした。
 それまでのマヤ研究40年の歴史において、先古典期の建造物として知られていた唯一の神殿は、1920年代にティカルの北部でカーネギー研究所が発見したワシャクトゥンの方形錐台ピラミッド(高さ8.3m)だけだったからです。1956年にティカル遺跡の初期の層を発掘していたペンシルベニア大学のコー教授は、その複雑さに戸惑い、「マヤ文明の形成はそれほど単純ではない。もっと遺跡の造形に注意を払うべきである。」と学会に警告を発していましたが注目はされませんでした。
 先古典期にその起源を持つマヤ古典期都市では、聖なるエネルギーの蓄積が失われないように先古典期の建造物が全て神殿の下に埋め込まれ、基壇の築造や石材に利用されていたことがわかるまでにはまだまだ時間が必要でした。グラハムたちの悩みはその後、9年間続きます。そんな昔にマヤは組織的、芸術的、技術的頂点を達成していたというのか。何者かがどこからか先古典期の土器をこの低地帯に運びこんだのではないだろうか。結論は出ませんでした。
1978年から約5年間にわたり詳細な調査が開始されました。1979年3月、エル・ミラドールの西のグループにある大ピラミッド「エル・ティグレ」の麓にあるジャガーの鉤爪の神殿を、古典期の建造であることと前提にして発掘を行っていたアイダホ州立大学のリチャード・ハンセンは、石膏で固められた神殿の基礎層にたどり着きました。そしてそこに床一面、何世紀にもわたって残されていた多数の壷の破片を見つけたのです。車輪を持たなかったマヤの人たちは移住する際に祭祀用の品と種子などを除き、ほとんどのものをその場に残していくのです。
 それはチカネル土器でした。そして色と光沢の種類からすぐに紀元前2世紀のものだと判り、ついにジャガーの鉤爪の神殿が前2世紀にはすでに存在していたことが確認されたのでした。この瞬間、経済史、文化史、社会史、全ての面でマヤ文明の発展モデルは全体として間違っていたとハンセンは確信しました。マヤはゆっくりと段階的に洗練されていったという従来の考え方は誤りでした。「そのとき、私がこの事実を知っている世界で唯一の人間だと思った。」と後日、ハンセンは語っています。
 巨大な建造物を持つこの都市が、ティカル、コパン、パレンケ、チチェン・イツァのような大都市誕生期とされるマヤ古典期のものではなく、それらよりも数百年も昔の先古典期のものだったというこの発見は考古学者たちを驚愕させました。このときの調査で、エル・ミラドールを中心に、現在ミラドール低地帯と呼ばれるエリア(グァテマラ・ペテン県北部とメキシコ・カンペチェ州最南部の一部。6410?。関東地方のおよそ2倍の面積。)に紀元前1000年から紀元後300年の間に、小規模のものを含め、少なくとも30の宗教都市遺址が存在していたことが確認されました。そこは《先古典期の都市遺跡》が《集中して窪んだ低地》にあったことから、『マヤ文明の揺りかご』(The cradle of Maya civilization)と呼ばれるようになりました。
 2003年から、アイダホ州立大学を中心に世界各地の52の大学や研究機関から約350人のスタッフが集められ、学術的な調査と保全対策が開始されました。資金集めに時間を取られ思うようにレポートをまとめられない中にあっても、その成果は、2008年8月までに、474の報告書と168の学術論文として発表されました。この発表により、有名なティカルが(その起源は先古典期まで遡るとしても)最盛期は古典期後期の紀元後8世紀で、その人口も6万程度だったことに比べ、エル・ミラドールが最盛期を迎えたのは紀元前3世紀であり、人口も20万を超える先古典期でありながらマヤ史上最大の大都市であったこと、そしてそこに古典期の全ピラミッドを凌ぐマヤ文明最大のピラミッドが存在したことが、欧米のテレビメディアによって大々的に取り上げられ、世界各地に大きな反響を呼び起こしました。現在までに、ハンセンが探査し位置を確定し発掘したミラドール低地帯の古代遺址は51に及びます。
《マヤ文明略史》
◆先古典期前期・中期 [前3000年~前400年] : 小都市の誕生、王権の成立、トウモロコシ栽培。
◆先古典期後期 [前400年~後250年] : 大都市建設、人口集中、大建造物の登場、三神殿型ピラミッド。代表都市:エル・ミラドール、ワシャクトゥン(オルメカ文明の影響)
◆古典期前期 [250年~600年] : マヤ文化の開花期(とされていた)、階段式ピラミッド、マヤ長期暦。代表都市:ティカル、コパン、カラクムル、ヤシャ(テオティワカン文明の影響)
◆古典期後期 [600年~900年] : マヤ文化の絶頂期(とされている)、彩色土器など。代表都市:パレンケ、ウシュマル、キリグア、チチェン・イツァ
◆後古典期 [900年~1524年] : 衰退期。代表都市:トゥルム(トルテカ文明の影響)
How old is Mirador ? ~ 歴史
 エル・ミラドールの起源はわかっていません。炭素測定の結果,エル・ティグレから見つかった陶器(前1480年)や、近くのプエルトアルトゥーロ湖で見つかったトウモロコシ(前2700年)の報告もありますがどれも不確かです。少なくとも紀元前10世紀頃から人が住み始め、紀元前6世紀頃から都市として繁栄し始めています。そして30以上の都市から構成され、合わせて100万以上の人口が推測されるミラドール低地帯都市群の首都として、紀元前3世紀から紀元後1世紀にかけて最盛期を迎えました。特に建設のピークは前300年から前200年の間と考えられています。大建造物のその規模と広がりから必要とされた労働人口を基に判断すると、家族も含めた最盛期の総人口は約20万人と推定されています(テオティワカンの最盛期[4~5世紀]の推定最大人口をも上回ります)。
 当時の名称はカン王朝といいました。カンはマヤ語で蛇を意味します。しかし、建設活動はその後、中断し、先古典期末期から数世代にわたり都市は放棄されました。時代を経てマヤ古典期後期になり、再び人が住み始め建設も再開されています。最終的にエル・ミラドールが廃墟となったのは、9世紀の終わり頃です。直径約6kmの市街区は、高さ10mから71mの幾つもの大建造物を含め、数千に及ぶ施設で覆われていました。ステラ(石碑)は数多く残されていますが、5125年で一周期のマヤ長期暦が刻まれていないため、絶対年代は特定できていません。
 人口数のこの驚異的な上昇の鍵は、この地方にたくさんある窪地の存在です。それは雨季には沼地(bayo)となります。熱帯雨林の土壌は雨によって洗い流されてしまうため、粘土質でほとんど栄養分を含んでいません。そこでミラドールの人たちは栄養分の豊富な数千トンの腐葉土を窪地から運び出し、人工的な農耕棚を造りました。この手法は、マヤ古典期における段々畑にも応用されています。トウモロコシ、カボチャ、豆、カカオ、綿、ヤシ、瓢箪など作物によって、加える石灰の量を変えて、アルカリの度数を調整する知恵も持っていました。栄養分が枯渇すると、また新たな腐葉土を運び込み、畑を再生しました。このような手法で、先古典期のミラドール低地帯では生産性が高く持続可能な農業が実現していました。沼地が古代マヤ人をミラドール低地帯に呼び寄せたのです。
 古代五大文明は、チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、黄河、インダス川、アムダリヤ川など大河の流域で生まれ、川の氾濫に対する土木工事の必要性が文明の成立の要件とされますが、もう一つその治水による大規模定住農業の成立と余剰生産物の発生(生産力の向上)が欠かせない条件です。ミラドール低地帯では、窪地が大河の役割を果たしました。余剰生産力を持ったマヤ先古典期は、すでに部族制、首長制の社会から、階級制度や国家宗教を持つ複雑な社会へと発展していました。大ピラミッドのような歴史的記念碑的な建造物や洗練された都市構造だけでなく、文字、職業の分化、社会組織に至るまで大きな飛躍を見せていたのです。
 特に洗練された技術には目を見張るものがありました。金属工具を使わずに巨大な石灰岩の塊を切り出し、それを車輪なしに採石場から建築現場まで移動させる技術(古典期同様にエル・ミラドールでも金属器、及び車輪は存在していませんでした)。屋根を利用した雨水の貯水池や水槽への集積。柱、石材、漆喰を使って、建てられた家々。解読が進んでいる古典期の神聖文字とは異なり、未だにほとんど解読できていませんが、かつては先古典期には存在しないといわれていた文字もあり、その文字や記号を使い、やはり未だに不可解なその歴史と文明を石碑に記録し、暦に時を刻みました(長期暦は未だ発見されていません)。
 ミラドール低地帯に存在しない黒曜石、玄武岩、御影石などは外部から輸入していました。歯には翡翠や茶褐色の鉄分を含んだ石のインレーを詰めていました。カリブ海や太平洋岸で採れた貝殻でアクセサリーも作りました。耽美的であること、優美であることは先古典期のマヤの人にとってたいへん重要なことでした。マヤの人たちは、大きな神殿から広場、家の床に至るまで、どこにも石膏を使いました。長い時間を掛けて石膏を厚く厚く塗り重ねました。殊に石膏に関して彼らは浪費や贅沢の誘惑に勝てませんでした。現代でいうところの見栄消費、虚勢消費、背伸び消費を繰り返していたのです。余剰のある高水準の文明ともいえますが、過剰消費は後にこの古代都市のウィークポイントになります。
EL MIRADOR (The Lookout) ~ オリオン座のピラミッド
 ミラドール低地帯には、巨大な階段状の基壇の最上部にさらに3つの頂上ピラミッド神殿をセットで持つ《三神殿型ピラミッド》[注2]と呼ばれる複合建築が数多く分布しています(推定36基)。その36基の中でも、特に巨大なものが、エル・ミラドールに3つ集中しています。東のグループにあるラ・ダンタ神殿、西のグループのエル・ティグレとロス・モノスです。
【LA DANTA ~ 世界最大のピラミッド】
 「ラ・ダンタ」とは、動物のバク(獏)の意味で、最も高い主神殿ピラミッドは71mに達し、ティカル4号神殿の65mを超えてマヤの遺跡の中では最も高く最大の建造物となります。それはアメリカ大陸で最も高いピラミッドであることを意味します。第1基壇(幅310m、奥行き590m)のアクロポリスの東側に第2基壇(幅190m、奥行き240m)があり、その広場のさらに東に第3基壇として階段ピラミッドが配置されています。その第3基壇の上に3つのピラミッド型神殿がある形で、4層構造を成しています。総体積は280万立方メートルで、質量的には、エジプト・ギザの大ピラミッド(クフ王のピラミッド)の1.15倍となり、世界で最も大きなピラミッドです。多くの考古学者たちが、ラ・ダンタの1.8ヘクタールに及ぶ人工的なこの第1基壇も計算に含めて、ラ・ダンタ神殿をピラミッドとしてだけではなく、世界最大の単独古代建造物として認めています。
 切り石の重量、及び発掘された9ヶ所の採石場との距離から計算して、この神殿をもし1年で造るなら、運搬だけで毎日最低41000人以上の労働力が必要となります。化粧漆喰は残っていませんが、石材の表面には左右の耳飾りを付けた大きな仮面の彫刻が見てとれます。また小神殿の側面にはジャガーやハゲタカの頭部の彫刻が残っています。東側の急な側面に片持ち梁の木製の階段がつけられており、71m の最上部まで登れます。頂上からは360度、地平線まで広がるジャングルの緑が見事です。視界に恵まれれば遠くにナクベやカラクムルの遺跡が眺望できます。
【EL TIGRE ~ 巨大な生贄祭壇】
 「エル・ティグレ」は、虎の意味です。かつては支配者たちが人間や動物を神への生贄として捧げる祭壇として利用していたと考えられています。西のグループで最大の建造物で、西の端に位置します。本来は西のグループ全体がエル・ティグレの第1基壇を成しているのですが、サッカー場三面分以上の面積があり、考古学的な常識を遥かに越え、あまりにも広大過ぎる為、便宜上、本来の第2基壇をエル・ティグレの第1基壇とし、広大な本来の第1基壇は西のグループの都市域としています。エル・ティグレの第1基壇(本来の第2基壇)は、幅140m、奥行き145mで、全体の高さは55mです。この本体部分はラ・ダンタの第3基壇から上とほぼ同じサイズの3層構造です。ラ・ダンタ同様にその最高部はジャングルの木々の上に頭を見せています。ラ・ダンタの建造は丘の斜面も利用できたため、より高く作られていますが、建築上はエル・ティグレの方がより高度な技術が使われています。
 エル・ティグレとラ・ダンタ神殿とは、互いに正面を向き、東西に対峙して建てられていて、さらに、直線のサクベ(白い道)で繋がっていました。
エル・ティグレ本体下部に隣接するジャガーの鉤爪の神殿には巨大な仮面の漆喰彫刻があります(仮面がジャガーの鉤爪の耳飾りをしているため、「ジャガーの鉤爪の神殿」と呼ばれています)。ボーイング社から派遣された技術者が、ジャガーの鉤爪の神殿で最も繊細なこの仮面の漆喰彫刻を保護するため、紫外線を遮断し、雨を避ける通気性ポリカーボネートの屋根を設置しています。
 エル・ティグレの東側にある「中央アクロポリス」は、マヤ文明の全ての公共建築物の中で最古の中心市街地[ダウンタウン]です。広大な都市域に比べて小さな建物に囲まれ狭くなっていますが、本来は第1基壇上の建築群であることを考慮すべきでしょう。エル・ティグレの南に位置する「ロス・モノス」は、猿たちの意味で、この地区にたくさん集まるホエザルに因んで名付けられました。あまり知られてはいませんが、高さ48mで、やはりたいへん大きい三神殿型ピラミッドです。西のグループの北の部分には「エル・レオン(ライオン・ピラミッド)」があります。エル・ミラドールとは、スペイン語で展望台(見晴し台)を意味していますが、それがマヤ時代の名称「カン王朝」とは異なるように、ラ・ダンタ、エル・ティグレ、ロス・モノス、エル・レオン、すべて親しみを込めて、発見後に名付けらえたスペイン語での愛称です。
[注2] 三神殿型ピラミッド Triadic pyramid
 単一の大きな階段状(ピラミッド状)の台座の上に、大きな主神殿ピラミッドと併せて、主神殿の前面にやや小ぶりな2つの内側を向いた左右対称の神殿ピラミッド(脇神殿)が併設されている、合計三基の神殿ピラミッド・セットを頂上に持つ二重構造のピラミッド[トライアディック・ピラミッド]。マヤ文明先古典期後期にその多くが建設されました。代表的なものが、ティカル[注3]、ワシャクトゥン、パレンケ、ナクベなどに残されており、現在メソアメリカ[注4]全体で合計88基が確認されています。最大のものがエル・ミラドールのラ・ダンタ神殿で、総体積ではあのティカル4号神殿の6倍ものサイズです。
 88基のうちの36基がミラドール低地帯にあります。2番目に大きなものはミラド-ル低地帯のエル・ティンタルです。現在のところ、紀元前300年よりも古い三神殿型ピラミッドは確認されていません。
 現代のマヤのシャーマンたちからの聞き取り調査により、研究者たちは、この三点配置は「創造の火」を囲む天体の囲炉裏を表していると考えています。マヤの創世神話にでてくる、第4の世界の始めに古の神々が3つの「石」をおいて宇宙の囲炉裏を創ったという伝説です。マヤの人たちは、オリオン座の三つ星ベルトの下のM42オリオン大星雲を囲炉裏の火と考え、そして三つ星(ゼータ星、カッパ星、リゲル)を囲炉裏の周りの3つの炉床石と考えていました。この三神殿型ピラミッドもオリオン座そのものを表していると考えられています。
*[注3]ティカルでは北のアクロポリスの奥の部分が紀元前2世紀に建造された三神殿型ピラミッドです。古典期にグランプラザ側に4基の塔が建てられネクロポリスに変わりました。先古典期にはこの三神殿型ピラミッドから『失われた世界』大神殿までその幅49mのサクベ(白い道)がありました。「失われた世界」大神殿の下にも先古典期の遺跡が眠っています。
   エル・ミラドールのほとんどの建造物が切石で外面を覆われ、さらにマヤ神話の神々を描いた化粧漆喰で飾られました。また、あるグァテマラ人考古学者によれば、神殿など重要な建造物は、都市建設初期から、偶然とは考えられないほどに太陽の軌道に応じて配置されていて、最初の住民たちは当初から、聖域の重要性も考慮した都市計画を持っていたと思われます。
[注4] メソアメリカ Mesoamerica
メキシコ中南部・中央アメリカ北西部において、共通的な特徴を持つ農耕民文化と壮麗な神殿ピラミッドなどを現在に残す高度文明(オルメカ文明、サポテカ文明、テオティワカン文明、マヤ文明、アステカ帝国など)が繁栄した文化領域を指します。地理的には、北はメキシコ中部から南はコスタリカ北部太平洋岸までですが、各時代で自然地理的な領域は変動しています。
SACBEOB (The Causeways) ~ 白い土手道
 エル・ミラドールのもう一つの特徴を挙げると、先古典期に建設された“道”の質の高さとその規模の大きさです。湿地を避けるために石で2~6mの高さにまで嵩上げされ、漆喰で舗装された“道”が、エル・ミラドール内部では重要な建造物同士を結び、外部ではミラドール低地帯の他の主要都市と繋がっていました。道幅は20mから広い場所では50mにも及びます。この“道”は、マヤの言葉で『サクベ(白い道)』と呼ばれ、マヤ古典期のものがよく知られていますが、地面を均し漆喰で舗装しただけの古典期の簡易舗装のようなものに比べ、ミラドールにおける先古典期のサクベは湿地帯に石を積みあげて浸水対策も行う大土木工事を伴うものでした。
 現在、エル・ミラドールから12kmに位置する姉妹都市ナクベ(前1400年~前100年頃)までのサクベや、エル・ミラドールから20km離れた別の姉妹都市エル・ティンタル(前300年~前150年が最盛期。高さ44mの三神殿型ピラミッドを持つ。)までのサクベ、さらには、エル・ティンタルとナクベを結ぶ20kmのサクベが確認されています。エル・ミラド-ルからエル・ティンタルを経てナクベに至る計40kmのこのサクベは、屈折してはいますが同時期に同じサイズで造られており、これが現在までにメソアメリカで発見・発掘されている全サクベで最長のものです。ラ・ダンタ神殿とエル・ティグレの間も、1kmの直線のサクベで結ばれ、平らにする為に1mから3mの高さに嵩上げされていました。ミラド-ル低地帯には世界初のフリーウェイ・システムがありました。
 舗装材はサスカブと呼ばれる漆喰で、細かくふるいにかけた乾燥粘土、有機化合物、石灰、粉砕石灰石を原料としています。そしてその比率はミラドールのどのサクベもほぼ同じで、明確な組織やルールのもとで“道”が造られていたことがわかります。ミラドールも車輪は持っていない社会でしたが、それでも“道”を造り続けました。より広くより長く、そして何重にもサスカブを塗り重ねて。

POPOL VUH (Original Maya myths) ~ 水路の創世神話 
 エル・ミラドールの建物の屋根や広場は、貯水池に雨水を集めるように設計されていました。そのため街の至るところに水路が張り巡らされ、エル・ミラドールの人たちは、その水路の側面も帯状の化粧漆喰で装飾していました。熱帯雨林地帯のミラドール低地帯は旱魃とは無縁に思えますが、1月から5月にかけては雨がほとんど降りません。膨大な人口を維持するには水がいつも不足がちだったのです。  2008年にアイダホ州立大学の考古学の助教授、兼メソアメリカ調査研究所上級研究員になっていたハンセンはチームを率い、熱帯雨林における水回収システムの調査に入りました。翌2009年、クレイグ・アーガイルという考古学専攻の学生が、中央アクロポリスで、マヤの神話、歴史、伝統を物語る『ポポル・ヴフ』が2枚の漆喰パネルに描かれた、前200年頃の水路を発見しました。
 ポポル・ヴフは、冥神との球技(ペロータ)で首を失った彼らの父フン・フンアフプーを復活させるために冥界に旅立った神秘的な才能を持つ双子の兄弟の冒険譚です。これは、ナクベの石碑やサン・バルトロの壁画[注5]と並んでマヤ創世神話が描写された最古のものです(この2件も共にミラド-ル低地帯の遺跡ですが、エル・ミラドールで発見されたポポル・ヴフと比べて、描かれている内容がはっきりしたものではありません)。個人的な借金をしてまでミラドールの研究にのめり込んでしまったため、妻(元考古学者)と子供たちによって、修士論文が燃やされてしまったハンセンの情熱がここに実りました。「下水道でモナリザを見つけたようだった」というハンセンのコメントは当時話題になったので覚えていらっしゃる方も多いかもしれません。
 描かれているのは、ポポル・ヴフの主人公で、父の敵討ちを果たし、ジャガーの頭飾りを被って泳いで冥界から帰る英雄の双子・フンアフプー(兄)とイシュバランケー(弟)です。フンアフプーは父親の首を背中に背負っています。その上には、「怪鳥巨人」悪神ブクブ・カキシュとおぼしき人面鳥獣のレリーフも見られます。ハンセンらが発掘したのは水路に沿って横に長い帯状の化粧漆喰パネルの一部(8m弱)であり、残りの部分は未だ土の下に埋もれていて、次回の大規模な発掘調査を待っているところです。現在、漆喰を雨から保護するために天井シェルターが作られています。
[注5]サン・バルトロの壁画:放血儀礼などを描いたマヤ最古の壁画が発見されています。2001年の年代測定の結果、前100年頃のものとわかっています。フンアフプー(らしき人物)、トウモロコシ、怪鳥の図象や、文字が書かれていますがストーリーは不明ですし、ポポル・ヴフではないという意見もあります。文字はほとんど解読されていません。
 ポポル・ヴフ神話がマヤ語で書籍化されたのは紀元後16世紀頃と考えられていますが、それよりも1800年も前にエル・ミラドールでは、その内容が後世と一致するポポル・ヴフ神話が芸術的にも素晴らしい漆喰彫刻で作られていたことになります。このことは、それまでのマヤ神話に対する一般的な見解を覆すものでした。
 マヤ創世神話「ポポル・ヴフ」と、旧約聖書をはじめとした旧大陸の創世神話の数々とでの類似性が認められるため、スペインのアメリカ大陸征服以降、マヤ神話は、カトリック教会・スペイン人司祭たちの布教過程でキリスト教によって、ストーリーに手が加えられオリジナルから汚染されてしまっており、そもそもマヤ神話をスペイン人に語ったマヤの人たちにも既にキリスト教が広がっており、その影響を受けてしまっていたと考えられていました。長い間、ポポル・ヴフ創世神話はオリジナルではないと教科書は教えていました。スペインの征服者コンキスタドールたちが新大陸に来るよりも、1700年も前から、現在と変わらぬポポル・ヴフがあったという発見は、マヤ人の天地創造の記録のオリジナリティーに信憑性を与えてくれることになりました。
 また、これにより新たな疑問も発生します。古典期マヤはテオティワカン文明の神殿建築の影響を受けている(とされている)のに、神殿と一体であるはずの神話には、テオティワカン神話の影響が見られない、少なくともはっきりしていない点です。テオティワカン神話の情報が少ないため結論は出せませんが、影響がほとんど無かったとすれば、それは早い段階でマヤ神話がしっかりと体系化されていたことの間接的な裏付けになりそうです。
Death of bayos ~ 大量消費社会の終焉
 エル・ミラドールとミラドール低地帯の町々は、紀元前300年頃から紀元前後にかけて大いに繁栄しましたが、考古学的調査によれば、紀元後150年頃までには低地帯の全ての都市が明らかに放棄されてしまっています。先古典期末期、ミラドール低地帯の都市群が放棄されるその少し前に、エル・ミラドールの西のグル-プは、北面、東面、南面に高さ3~8m、長さ1200m以上の大きな壁を建築しています。これがマヤ最古の城壁と思われます。さらに西側部分は、高さ18.3mの外壁で囲みました。何らかの政治的または軍事的な脅威が迫っていたことが示唆されています。ハンセンのチームは、エル・ティグレの上部で、黒曜石のやじりが肋骨に刺さった骸骨を発見しています。都市崩壊時の外敵に対する最後の抵抗者の一人であった可能性があります。
 都市放棄のもうひとつの要因が、森林伐採による土壌の流出です。マヤの人たちは、建物や、家や床に漆喰を使うことが大好きでした。そして前述したように道路建設にも必要以上に大量に漆喰を使いました。土器さえも化粧漆喰で飾りました。漆喰を塗ると表面が滑らかになり、装飾が容易になります。化粧漆喰を使い、マヤの人たちは驚くほどに美しい文物や、滑らかな壁のピラミッド、そして“よく舗装された”道を造ったのです。しかし良い面ばかりではありませんでした。漆喰の生産と消費が適度に保たれている間はよかったのですが、ある時期からそれは大量生産、大量消費へと移行してしまいます。漆喰の元になる石灰を作るには、石灰石を加熱加工するため、大量の木材を必要とします。計算によれば石灰1トンの生産には、石灰石5トンと木材5トンが必要でした。石灰石を加熱処理するには、一定の温度を保って焼く必要がありました。乾いた木材では急激に温度が上がり過ぎるのです。水分を含んだ成長中の木を燃料にするのが最良の方法でした。マヤの人たちは、枯れ木は使わずに利用可能な緑の木々をことごとく切り倒していきました。
 ミラドール低地帯の窪地とその周辺の調査により、森林伐採の影響が明らかになっています。遅くとも紀元後100年頃から、木々が消え始め、土壌が緩み、地盤の粘土層が雨季に雨で流され窪地に流入してしまっていたのです。農耕棚で利用していた栄養豊かな腐葉土は、痩せた粘土の数メートル下に埋葬されてしまったのでした。持続可能だったはずの農耕はこうして終焉を迎えました。それはエル・ミラドールに飢餓をもたらし、エル・ミラドールの社会を崩壊させました。広いメソアメリカの中で、極度にミラドール低地帯にのみ集中してしまった人口と建築が森林破壊を早め、飢饉を誘発してしまったのです。先古典期末期の壁の建設も、食料を巡る争いが原因だったのかもしれません。
 ミラドール低地帯の住民たちは、ここを離れた後、まずカリブ海沿岸に移住し、その後、再び内陸に戻りエル・ミラドールの北(現在のメキシコ・ユカタン半島最南部)に、後6~7世紀に都市国家カラクムルを築いたと推測されています。カラクムルはエル・ミラドールの南にあるティカルの強力なライバルになりました。エル・ミラドールは先古典期にカン王朝として知られていました。古典期カラクムルの正式な名称はチイク・ナアブですが、カラクムルの歴代の王たちは自らを「チイク・ナアブの君主」とは名のらずに、「カンの君主」と称していました。栄誉ある太古の称号だけ利用したのか、それとも血統的にもミラドールの後継者なのかは不確かではありますが、カラクムル最大の一号建造物が同時期のティカルの神殿群よりもミラドールのラ・ダンタ神殿に類似していることも興味深いところです(かつては、それはテオティワカン文明の影響として片付けられていました)。
 古典期後期、紀元後700年前後に再び、エル・ミラドールの一部に人が住み始めます。しかしその人口規模は小さく、活発な建築活動は行われず、先古典期の巨大な遺跡の間に小さな建物をいくつか建てただけでした。最大のものでも高さ8mに満たない大きさです。先古典期の建物の多くは破壊され、建築資材や石灰の原料として利用されました。しかしながら、古典期後期のエル・ミラドールの人たちの芸術的才能は注目に値します。クリーム色の下地に黒い線で神話や歴史上の出来事が描かれた《写本土器》と呼ばれる彩色土器がたくさん見つかっています。エル・ミラドールでの再定住の時代は長くはなく、900年頃までには都市は再び放棄され無人となり、それ以降、二度と人が住むことはありませんでした。
Classical Antiquity ~『古典古代』としてのエル・ミラドール
 サクベがマヤ全体で道路網として整備されたことは歴史上なかったので、マヤには一度も統一国家の要素はなかったと21世紀になっても書いている人が未だいますが、この意見は完全に否定されました。古典期の2大都市・ティカルとカラクムルの間にサクベがなかったこと(対立抗争関係にあったのですから当然といえば当然ですが)を理由にマヤ文明は統一した国家を持たなかったという以前の定説の根拠は完全に崩れました。
 エル・ミラドールは、45以上のミラドール低地帯の都市群を統合し、メソアメリカだけにとどまらず西半球において組織的な統治機構を持った最初の国家だった蓋然性が高いとハンセンは考えています。それは今まで考えられていた時期よりも1000年も前ということになります。限定された産地の産物を求めて都市間交易が活発になったのも古典期の特徴の一つとされていました。古典期ティカルの交易品として黒曜石、ケツァールの羽根、翡翠、蜂蜜などが知られていますが、ミラドールで見つかっているものとほとんど変わりがありません。
 一般的にもエル・ミラドールを『マヤ発祥の地』と評することも多くなってきました。“マヤ文明の揺りかご”というミラドール低地帯の枕詞はそれを象徴的に示しています。以前は先古典期の期間を、マヤ文明の最盛期(マヤ古典期)を準備した時期として、マヤ形成期と呼んでいましたが、エル・ミラドールの発見以降、古典期(マヤ文明最盛期)から見た『古典の時代』にあたる期間として肯定的な評価に変わりました。「先古典期」という概念は、古典期に先んじた助走期ではなく、古典期にとってさらに規範となる時代「古典期から見た古典古代」という意味に変容してきています。ですが、ただそれだけなのでしょうか。
 徐々にわかってきた上述の内容を整理し、エル・ミラドールの特徴を列挙すると、
①農耕棚を造り、土地の滋養を高める手法(古典期の段々畑に引き継がれている)。
②石灰の製法やそれを利用した土地改良など科学的知識。
③大ピラミッドや広大な基壇など古典期を凌駕する建築群。
④天体に関する知識とそれに基づく都市建設、神殿建築。
⑤大規模な集水システム。
⑥金属を使わずに巨大な石を切り出す技術と車輪なしで大きな石材を運搬する技術(この技術が完成していたがために古典期になっても金属器や車輪が発明されなかったと推測される)。
⑦古典期を上回る大規模で高水準なサクベ(白い道)。及び、そのネットワーク。
⑧太平洋岸など遠方との交易。
⑨芸術への強い志向と過剰消費。
⑩質の高い化粧漆喰。水路も全て覆うなど古典期よりも徹底したその利用。
⑪聖域の配置を意識した都市計画やサクベのネットワーク化などから推測される高度な統治機構の存在。
⑫すでに体系化されていたと考えられるマヤ創世神話。
⑬文字(古典期の神聖文字と類似する部分もある)の使用と暦(長期暦は今のところ無い)の作製。
といった点があげられます。
 1960年代までは古典期以前を、マヤ文明の形成期と呼び、文字の発明を古典期の始まりとしていましたが、上述の事実により、現在は共に取り消されています。そうすると一つの仮説が成り立ちます。まず、建造物その他の規模から考えて、エル・ミラドールの方が古典期の各都市よりも社会的経済的に強力であったことが推測されます。長期にわたり大土木工事に取り組める統治組織の存在とそれを実行できる経済的な基盤があったわけで、(低地帯内関連都市群を含め)エル・ミラドールこそがマヤ文明の一つのピークであったと考えることができます。
 トウモロコシの品種改良が最初に成されたのが起源前3000年頃の中米で(これが先古典期の始まりですが)、カボチャやマメの栽培とともに比較的に短時間で中米各地から南米各地に広まりました。同様にコロンビアやエクアドルなど南米北部で同じ頃、作られるようになった土器も南米各地、中米各地に瞬く間に広がります。必要とされる文化の伝播は想像以上に早いのです。しかし後にアンデス地方で始まったラマやアルパカなどラクダ科動物の家畜化=牧畜文化は、ついに先古典期のマヤに取り入れられることはありませんでした(熱帯雨林の特性として下草が少ないということもありますが近くには乾燥したグァテマラ高地地方があります)。
 これは先古典期のマヤが余剰食料を抱える高い生産力を持っていたことの逆説的な裏づけになります。そしてエル・ミラドールの崩壊により、サクベやピラミッドの建造の技術、段々畑の農業の知識などを持った人々が、神話や装飾などマヤ文化を携えて、グァテマラ各地やメキシコ南部・ユカタン半島に散らばって行き、カラクムルから最終的にはコパンやチチェン・イツァで、いわゆる「古典期」と呼ばれる時代を築いていったとも考えられます。
 古典期各都市の経済規模はエル・ミラドールに比べるとやや小ぶりであったため、ピラミッドやサクベのサイズも小型化し、エル・ミラドールを超えることはありませんでした。一方、エル・ミラドールのような一極集中ではなく、いくつもの都市が並立していた古典期は、競合だけでなく必然的に交流も生まれ、そこから新たな文化も生み出していきました。長期暦はその代表ですが、そこに刻まれている破滅と再生には、エル・ミラドール崩壊の民族としての記憶が重ねられているのかもしれません。
 フンアフプーとイシュバランケー神話の後日譚であるトウモロコシ再生の物語も(後日譚であることも含めて)暗示的です。古典期におけるピラミッドの形態の変質に関しては、テオティワカン文明の影響が以前から指摘されているとおりです。古典期神聖文字や長期暦以外の主だったマヤ文化を生み出したエル・ミラドールという大都市文明の崩壊が、メソアメリカにマヤ文化領域を拡大させるという形をとり、各地方での地域性を育みながら古典期は開花しました。分散しているのですから当然、交易も活発になります。
 マヤ古典期は気候に恵まれ徐々に経済発展していったのでもなく、もちろん自然発生的に突如として各地に現れたのでもなく、エル・ミラドールという「マヤ世界帝国」が崩壊した結果として出現した乱世の文明期=小国乱立の戦国時代であった、このように考えると合理的に説明がつきます。先古典期当時は小規模であったとしてもエル・ミラドールの時代から存在してきた伝統国家・ティカルと血統の正当性を主張するカラクムルの二大都市が、合従連衡を繰り返し、覇権を争った時代、それが古典期だったようにも見えてきます。
 両都市がエル・ミラドールの南北にそれぞれ隣接していることも示唆的です。研究者によっては、神聖文字をはじめとする言語、芸術、宗教の共通性がマヤ世界全体に見られることから、後320年から987年を旧マヤ帝国と評する例も見られますが、これは文化の統一化が進んだのではなく、もともとミラドール文明期という“根”が同じだったとすると、そもそも議論の前提に誤りがあるように見えます。これはあくまで素人の机上の空論ですので、実際には研究者にお任せしましょう。
 蛇足になりますが、古典期後期の特徴として生贄の増加が挙げられることがありますが、ミラドール期から放血儀礼をはじめとして生贄の儀式は盛んに行われていました。そもそも生贄とは何かを得るための等価交換の発想ですので、天や神への贈与は『人口増加』に伴う需要拡大が起こった古代社会では必然的なものでもあります。

[参考] 高さから見たマヤのピラミッドTOP10 1: エル・ミラドール / ラ・ダンタ神殿(71m)
2: ティカル4号神殿〈双頭の蛇の神殿〉(65m/屋根飾りも含めると70m)
3: ティカル5号神殿(57m)
4: エル・ミラドール / エル・ティグレ(55m)
5: ティカル3号神殿〈ジャガー神官の神殿、大神官の神殿〉(54m)
6: ティカル1号神殿〈大いなるジャガーの神殿〉(51m)
7: カラクムル1号建造物(50m)
8: エル・ミラドール / ロス・モノス(48m)
9: カラクムル2号建造物(45m)
10: エル・ティンタル[ミラドール低地帯](44m)

*ミラドール、ティカル、カラクムルのエル・ミラドール周辺3地区だけでTOP10を占めてしまいます。ユカタン半島勢がでてきません。このことからもミラドールの発見前と後で、どれだけマヤ文明の俯瞰図が変わったのかがわかります。(参考値:テオティワカン文明の「太陽のピラミッド」は65m))
http://www.sekai-kikoh.net/?p=2024




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