アグアダ・フェニックス
中米メキシコで、マヤ文明が栄えた地域としては最古かつ最大の構造物が発見された。南北1400メートル、東西400メートルにわたって広がる土の基壇(上に建物を建てるための基礎部分)で、今から3000年前に造られたものという。2020年6月3日付の学術誌「Nature」に論文が発表された。
マヤ文明の最盛期は「古典期(西暦250年?900年)」とされるが、近年の研究では、その1000年以上前により大きな構造物が造られていたとする見方が広がりつつある。今回の発見は、この考えを支持するものだ。
発見場所は、メキシコの首都メキシコシティーから東に約850キロ、タバスコ州にあるアグアダ・フェニックス遺跡。この遺跡は、マヤ文明発祥の地とされるマヤ低地にある。
発端は2017年のLiDAR調査。レーザー技術を使い、航空機から密林の樹冠の下に広がる構造をとらえる調査方法だ。すると、何百年もの間、なかば森に埋もれ見過ごされてきた放牧地から、驚くべきものが浮かび上がった。巨大な基壇と、そこへ通ずる少なくとも9本の道路だ。
なぜ、これほどの遺構が今まで見つかっていなかったのだろう?
「説明が難しいのですが、この巨大な構造は、現場を歩いてもよくわかりません」と、論文の筆頭著者である米アリゾナ大学の考古学者、猪俣健氏は話す。「高さは9メートル以上ありますが、水平方向にあまりに大きいため、その高さを実感できないのです」
「想像するしかない儀式」
放射性炭素による年代測定の結果、基壇の建設が始まったのは紀元前1000年頃とわかった。
しかし、アグアダ・フェニックスでは、これ以前の建造物は見つかっていない。つまり、少なくともこの時期までは、この地域の住民(おそらく古典期マヤ人の祖先)は、一時的な野営地を転々とし、狩猟採集生活を送っていたとみられる。ではなぜ、どのようにして突然こうした巨大構造物の建造に至ったのか。
猪俣氏の推定によると、基壇とその上の建造物の総体積はおよそ370万立方メートルと、エジプト最大のピラミッドすらもしのぐ。また、建造には5000人が終日働いても、6年以上を要したと算定した。
「ここは儀式場だったと、我々は考えています」と同氏は話す。「想像に過ぎませんが、おそらく行進やその他の儀式に関連して人々が集まった場所だったのです」
この構造物の上や周辺から住居は見つかっていないため、近くに住んでいた人数は不明だ。しかし猪俣氏は、基壇の巨大さから、アグアダ・フェニックスを作った人々は、徐々に狩猟採集生活を離れていったと考えている。トウモロコシの栽培がこれを促進した可能性が高く、遺跡からはその証拠も見つかっている。
「その壮大な規模は、驚くべきものです」と、この地域の初期の歴史を研究するTerracon Consultants社の考古学者ジョン・ローゼ氏は話す。今回の研究には関わっていない同氏は、しかし、この構造物が定住生活の証拠になるとは考えていない。「定住前の人々による巨大建造物は、世界的には珍しくありません」
ローゼ氏によると、今回の研究が間違いなく示しているのは、人々が平等に共同作業をするという進んだ能力だという。氏はこうしたやり方が初期のマヤ社会では典型的だったと考えている。猪俣氏も、基壇は、強い社会階層をもたないコミュニティーが造ったと考えている。
ここが儀式の場だったと考える根拠として、猪俣氏は西に390キロ、オルメカ文明のサンロレンソ遺跡(…メキシコのベラクルス州南部にある先古典期前期の遺跡。メキシコ湾岸におけるオルメカ文明の最初の中心地で、紀元前1150年ごろから繁栄したが、紀元前900年ごろに破壊され[1]、中心地はラ・ベンタ(…メキシコ湾岸ではベラクルス州南部のサン・ロレンソが紀元前1200-紀元前850年ごろに発展したが、その後は衰退した[3]。サン・ロレンソにかわってメキシコ湾岸の中心地になったのがラ・ベンタである[4]。ラ・ベンタではオルメカ文明の最初の都市が築かれた…)に移った。最盛期の人口は8,000人から18,000人と推定されており、当時のアメリカ大陸で最大級の集落だった…)にあるさらに古い儀式場を挙げる。アグアダ・フェニックスより400年ほど前に作られたサンロレンソ遺跡には人工の段丘があり、同様の機能を持っていたかもしれない。しかし、そこには人間の巨大像があることから、一部の人が他者よりも高い社会的地位をもっていた可能性もある。
アグアダ・フェニックスを建造した人々は、サンロレンソからインスピレーションを受けていた可能性もある。だが、サンロレンソで研究をしてきたメキシコ国立自治大学の考古学者アン・サイファーズ氏によれば、両遺跡は「まったく違う」という。さらに、サンロレンソで見つかった土器は、アグアダ・フェニックスで見つかったものとは大きく異なると、同氏は付け加える。
共同の社会から縦社会へ
ところで、このような巨大共同建設プロジェクトを行う目的は、何だったのだろうか? 論文の共著者であるカナダ、カルガリー大学のベロニカ・バスケス・ロペス氏は、意図を示すものだったのではと考える。つまり、数世代にわたり異なるグループの人々を結びつけることを目的とした公式の共同事業だったというのだ。
たとえば、貴重なヒスイの斧は、共同建設プロジェクトの終わりを象徴しているのかもしれない。一方、基壇に使われた土の層には、異なる色の土が市松模様のようになってところがあった。異なるグループが建造したことを象徴しているのかもしれないという。
「今日でも、メキシコの一部の町では、異なる地区の住民が、中央教会広場の清掃を分担しています」とバスケス・ロペス氏は述べる。
このアグアダ・フェニックスの歴史的建造物は、紀元前750年までに放棄され、1000年以上後のマヤ文明古典期までには、より高いピラミッドが建設されるようになった。以前より小さくなった基壇には上層部だけが上がることを許され、幅広いコミュニティーが集まるスペースはより狭くなった。
「初期には、人々はとても興奮していました」と猪俣氏は語る。「その後、熱狂は少し冷めてしまったのです」
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/060500337/?P=1