諏訪地方の縄文時代


縄文時代の狩猟具・漁労具

転載元http://rarememory.justhpbs.jp/suwajyou1/suwa.htm



 石器時代を通して狩猟具の石槍の製作は生業を支える最重要な仕事であった。槍穂としての槍先形尖頭器は依然として使われ続くが、この時代に特記されるのが石鏃の登場であった。上諏訪大和(おわ)区千本川沖、現湖岸より約300m、現在の湖面(759.3m)より下の約2mにある諏訪湖底曽根遺跡では、万を数える大量の石器と石屑が採集された。おびただしい黒曜石製石鏃や石器類の保有は、石器製作が集中的に営まれていた証でもある。両面調整の槍先形尖頭器と共に縄文草創期から登場する長脚鏃・三角鏃などが製作されていた。伴出した鍬形鏃は縄文早期に広く使用され、時代を特定できる史料である。
 石鏃の中で片脚が欠損したもの、左右非対称のものもあるが、細石器で主に漁労用のモリ・ヤスなどの替刃とみられる。 旧石器時代、既にナウマンゾウ・オオツノシカなど大形獣が絶滅し、縄文時代には弓矢猟が主となり石鏃が最大に作られ性能も工夫された。旧石器時代の投げ槍を主体とする槍形尖頭器が工夫され石鏃となったともいわれている。熊・猪・鹿・兎・狼・狐・狸など敏捷な中小形が獲物のため技術が向上し、飛ぶ鳥を射殺するまでになった。
 石鏃は縄文時代の狩猟具を代表する存在であるが弥生時代に至るまで製作されていた。ただ諏訪地方では縄文草創期の曽根遺跡や前期の遺跡では数多く作られるが、中期では少なくなる傾向がある。温暖化による生業の変化と動物資源の減少が予想される。
 諏訪湖とその流入河川では漁労を発展させた。投網や仕掛網の錘用の石錘は後期旧石器時代でも既に少量みられ、縄文時代に最も多くなり、約5,000年前の前期後半から登場する土器片錘(へんすい)の起源となった。土器の破片を正方形や長方形に仕立て、長軸の両端に切り込みを入れて糸掛けにした。やがて手づくねで長方形の漁網錘・成形土錘も作られた。片羽町B遺跡から出土した縄文中期の土器片錘は厚手で形も大きい。網目の大きい漁網で、大形のコイや川マスを獲っていたようだ。
 縄文後期になると「磨り切り石錘(すりきりせきすい)」が登場する。粘板岩・泥岩など柔らかい長楕円状の石材を磨き、硬い石でこすり両端に2筋・十文字・一文字に溝を掘り糸掛けした。諏訪市内の穴場遺跡・大安寺遺跡からは、石錘原石に砂岩製の刃器で磨り切り加工を施す全工程の史料が発掘されている。磨り切り石錘は約4,000年前の縄文後期初頭の称名寺式土器の時代に出現する。当時土器が薄手化し素焼であれば脆く実用に耐えず、加工し易い粘板岩・泥岩で代替したようだ。
 石錘でも礫石錘は河川の上流部の縄文中期の遺跡で出土している。川床の礫石を活用したためである。岡谷市横河川上流の上向遺跡・上ノ原遺跡・梨久保遺跡と茅野市上川流域で出土している。湖岸と下流域では、川床が砂泥質のため漁網錘は、土器片錘が広く分布する。下諏訪町高木殿村遺跡・稲荷平遺跡、岡谷市天竜町海戸遺跡・船霊社(ふなだましや)遺跡、諏訪市有賀十二ノ后遺跡(じゅうにのきいせき)と湖岸から4km離れる諏訪市大熊の荒神山遺跡から出土している。荒神山遺跡からは縄文中期土器の土錘が多量に発掘されたが、石錘はみられなかった。この縄文中期の漁労は、荒神山遺跡を下った諏訪市の宮川から湖南の新川間が漁場で、産卵期の5月から6月にかけて遡上するフナ・アカウオ・ハヤ・カワマス・ウグイ・ナマズなどが対象であったようだ。
 河川上流に遡上する魚は、産卵期のアカウオ・ヤマメ・ハヤ・アカズなどの季節漁労で、漁獲期に可能な限り捕獲し燻製にし長期保存を心掛けた。やがて産卵期に効率的に集中する漁労は次世代の収穫を不能にした。諏訪地方では後期末葉には漁網錘がみられなくなる。諏訪湖と流入河川の魚介類資源が枯渇したようだ。
 現代でも諏訪湖で行われているタケタカ漁は、水中にカスミ網をはり、そこにかかった魚をとる漁法で、タケタカはコイ・フナを獲る網をいい、コイやフナは湖水を一周する習性があるので、湖水の一番深い所に網を張る。その水深を変えるため網の上に木製の浮子(うき、うけ)、下には石製・土製の沈子(ちんし)を付ける。その数を加減して仕掛ける。
 茅野市の音無川右岸の栃窪岩陰遺跡や同じく重文「仮面の女神」が出土した中原遺跡の三号住居祉から、骨・堅果類の食料残滓が検出されている。骨片はエチゴノウサギ・ニホンジカ・イノシシ・アナグマ・コイなどが鑑定されている。








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