諏訪湖盆地域の黒曜石
転載元http://rarememory.justhpbs.jp/suwajyou1/suwa.htm
八島ヶ原湿原周辺は、箱根畑宿、神津島と並ぶ全国でも屈指の黒曜石の産地で、星ケ塔、星ケ台、和田峠一帯、星糞峠、そして最近発見された東俣等、多数の原石採取地がある。いずれも諏訪湖から直線で10kmと離れていない1日で充分往復可能な距離であった。
当時は、沢・川・獣道が道筋となり、和田峠から砥川一筋のルート、八島遺跡群から合倉沢と観音沢の二筋が合流して東俣川となって砥川に流れ込むルート、霧ケ峰から沢筋を下って角間川一筋、池のくるみから桧沢川を経て米沢へ抜けるルート、いずれも谷は深浅があるが、川筋はそれほど急峻でなかった。熊に脅えながら下ってみると、諏訪湖にいかに近いかが分かる。第二次大戦前後まで、茅野・諏訪から車山・池のくるみ・八島ヶ原へと直線に近い山道が霧ケ峰高原に向かっていた。
静岡県浜松市前平(まえひら)Ⅲ遺跡で、直径1m位の浅い土坑から、120点、そのほとんどから信州産の黒曜石原石が出土した。諏訪湖周辺の遺跡、あるいは洞窟からは黒曜石の集積貯蔵の遺構が多数発見されているが、前平Ⅲ遺跡は諏訪湖を水源とする天竜川を、約180km下った所にある。
発見された黒曜石の原石は小粒で5cm超のものは少なく、この集落用の石鏃製作の原料とみられている。天竜川を遡り、諏訪湖周辺の集積所兼交易所で入手したようだ。
一方、諏訪地方の各地の遺跡では、その時代ごとに地場の特徴を備えた各種土器形式とは異質な土器が、少数混じって出土する事例が多い。茅野市の「縄文のビーナス」が出土した棚田遺跡からは、関西系の船元(ふなもと)式が、諏訪市の千鹿頭社(ちかとうしゃ)遺跡からは、関東地方の関山(せきやま)式が、原村の大石遺跡では、関西系の鷹島(たかしま)式と北陸の上山田(かみやまだ)式等、例を挙げれば限りがない。
そこで推測しえることは、石鏃材として最高の原料・黒曜石を入手するために、各地のムラの代表者か元気者が、地元の土器に地場の海産物や獣肉を塩漬けにして、諏訪の黒曜石集積所兼交易所におもむき、その交換レートの交渉をしたのであろうか。
縄文人は土器の煮沸機能だけではなく、長期は無理にしても、経験的に食材の腐敗を遅らせる保存能力に気付いており、燻製や干物にしなくても、土器で保存すれば腐食を遅らせ、なお紐で吊るせば携帯も可能で、適宜、調理もできる。それは未知なる遠隔地へと、その行動範囲を広げることを可能にしたようだ。
縄文文化は、ふつう以下に示す6期に区分される。それに合わせて諏訪地方の縄文時代を年代分けする。
●草創期(そうそうき) 縄文文化の黎明期(1万数千年~約1万前)
●早期 (そうき) 縄文文化の成立期(約1万~6,000年前)
●前期 (ぜんき) 縄文文化の発展期(約6,000~5,000年前)
●中期 (ちゅうき) 縄文文化の爛熟期(約5,000~4,000年前)
●後期 (こうき) 縄文文化の転機(約4,000~3,000年前)
●晩期 (ばんき) 縄文文化の終着点(約3,000~2,300年前)