北海道の縄文時代
転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/jyoumon/
流氷の訪れるオホーツク海に面し、常呂川(ところかわ)河口からサロマ湖に至る海岸沿いに延びる砂丘地帯の雑木林を中心に拡がっているサロマ湖の町・北海道常呂町(ところちょう)の郊外では縄文早期、前期の遺跡が発見されているが、数は少なく、遺跡の数では、中期(約4,000~5,000年前)が最も多い。縄文中期の遺跡は、東北地方と共通する点が多い。史跡は延長約4.5km・幅約200mの砂丘上のカシワ・ナラの叢林の中心にあり、竪穴住居群が、約2,500軒にも及び埋没しきれず凹地として残っていた。旧石器時代から縄文時代・続縄文期・擦文期・アイヌ文化期まで常呂遺跡が連綿と続く。常呂縄文人もまた、アイヌの血脈の一つと考えられる。
通常、縄文時代は2千年ほど前に、ほぼ終わりを告げる。本州以南では紀元前5世紀ころから水耕稲作が広く展開し弥生時代へと移るが、北海道は続縄文・擦文・アイヌ文化へと時代をたどっていく。北海道では鉄器のみが伝来しそれまでの縄文文化を継承しながら6世紀頃まで続く。これを続縄文時代と呼ぶが、極論すれば、漁労・狩猟採集の縄文的文化が明治の時代まで続いた事になる。但し擦文文化期には広範に農耕が営まれていた。虻田郡(あぶたぐん)洞爺湖町の高砂貝塚などアイヌ文化期の粟や稗などの畑作跡も数多く発見されている。奥州との交流を通じて広がったようだ。
擦文時代(さつもんじだい)は、7世紀~12世紀・飛鳥時代から鎌倉時代、北海道を中心にした文化であった。土器は煮炊きに使用する深鉢形が中心となり、本州の素焼きの「土師器(はじき)」の影響を受けた擦文式土器を特徴とする文化期である。擦文の一般的な特徴は、器面にヘラ状の道具で擦(こす)った擦痕や種々の刻線文・沈線文がみられることにある。その刷毛で擦ったような紋様から命名された。『縄文』紋様は消滅していった。この頃になると本州との関係が深まり、土師器やロクロで成型し高温で焼いた「須恵器(すえき)」が北海道へも渡ってきた。衣服では、オヒョウニレやシナ、イラクサなどの繊維から糸を紡ぎ、それを機で織るようになった。オヒョウニレは、アイヌ語では「アツニ」、アイヌの人たちは、この木の皮でアツシ(衣服)を作った。
擦文文化と後のアイヌ文化期には、動物や漁労道具などを神の世界へと送り返す「送り」の儀礼がある。 後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとって代わられた。アイヌ文化は擦文文化を担った人々が新たな文化を創出・移入した。鉄製鍋、漆器の椀、捧酒箸(ほうしゅばし)、鮭漁用の鉤銛、オットセイやイルカなどの海獣を捕るための鹿の角や鯨の骨角製の銛、埋葬は手足を折り曲げる「屈葬」式の土葬など物質文化面での特徴を示している。アイヌ文化は動物や植物など人間に恵みを与えてくれるもの、火や水、生活用具など人間の生活に欠かせないもの、地震や津波など人間の力が及ばないものをカムイ(神)と敬い崇めた。その"カムイノミ;神の国"の儀式で、神や先祖に"神酒"を捧げるとき、"イクパスイ"(イク;酒を飲む・パスイ;箸)という独特の儀礼具・捧酒箸を使う。蛇に巻かれた捧酒箸、クマを崇める捧酒箸、シャチが乗せられた捧酒箸など華麗な意匠の捧酒箸、それは、人間の祈りを神へ伝える役目を持つ。
アイヌは鮭をカムイチェプ(神の魚)と呼び主食の中心とした。秋に遡上してきた鮭を大量に漁労し、漁場の近くの専用の加工小屋兼住居で簡単な燻製をし干物にし保存食とした。また和人との交易品上の主要産品の1つで、獣皮・猛禽の羽根など交易による経済に傾斜ていた。アイヌの住居のチセは、周辺の山林から得られる自然木を素材とした簡素な木造建築で、掘立柱を地面に直に埋め柱と梁を組んで、笹・萱・葦・樹枝・樹皮などを壁・屋根に使用し、葡萄の蔓・樹皮などで固定し屋根を支える寄棟であった。アイヌ文化も地域によって差異があり、樺太アイヌは犬橇やスキーを使用するなどオホーツク文化の影響が見られる。
常呂町内全域には竪穴式住居跡が数万ヶ所にわたって点在している。この常呂遺跡からはオホーツク文化という特異な文化の遺物も多数発掘されている。オホーツク文化は6世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太南部、南千島の沿海部で、擦文と平行して発展した。この文化の担い手は、擦文文化の担い手とは別の民族と考えられている。彼らがどこから来た民族なのかは、未だ不明だ。オホーツク文化の人びとは海を生業の場とし、魚類や海獣類を捕獲していた。住居は複数の家族が住んだと思われる5角形・6角形をした大きな竪穴式で、住居内に熊の頭蓋骨を積み上げた「骨塚」があり、神聖な場所だったようだ。
古代の銛は、オットセイやイルカなど海獣の体内に打ち込まれた銛頭が、紐を引っ張ることにより回転して抜け難くくなり、それをを引き寄せて捕獲する回転式離頭銛に見られるような発達した漁具があり、海獣を象ったり波形や魚、漁の光景を描いた独自の土器や骨角器、また住居内に熊の頭蓋骨を祀ったり、独特な死者の埋葬法など、精神文化の面でも独自性が強い。土器のほかに、鏃(やじり)、銛先(もりさき)などといった石器や、柄の部分が蕨の穂先の形を特徴とする蕨手刀(わらびてとう)と、柄の部分が刃の方向に湾曲する生活用具の曲手刀子(まがりてとうす)などの鉄器、鈴や帯金具などの青銅器も使用していた。蕨手刀は、平安時代時代以降の日本刀の原形となった。
青銅製金具は、帯につける飾りで、北の大陸からもたらされた。アイヌ文化の狩猟技術や建築方法も、オホーツク文化の影響が画期となった。オホーツク文化はやがて、擦文文化へと吸収され、アイヌ文化へも受け継がれていくことになる。
この常呂遺跡を発見したのは大西信武である。大正13(1924)年、土木工事の現場監督として25歳の時、常呂町に居を構えた。常呂の港湾施設の工事現場で働くなかで貝塚を見つけた。さらに調べ始めると海岸の砂丘にはおびただしい竪穴住居跡の凹みがあり、竪穴住居の数の多さが普通ではないことが直ぐに分かった。その後、経営することになった常呂劇場の方は妻にまかせきりで、遺跡に夢中になっていった。その大事な遺跡が次第に壊されてゆくことを憂え、保存を住民や役場に訴え孤軍奮闘した。開拓から間もない時代であり、軍備増強という流れのときでもあった。地元の人や役場から理解は得られなかった。
大西氏は常呂遺跡の重要性を人々に理解してもらうには、考古学者に調査してもらうしかないと考えた。旅費を工面し、北海道大学へ何度も赴いた。しかし理解が得られなかった。東北大学にも出掛けたが門前払いであった。
戦争が終わると、昭和22年頃から常呂遺跡保護のために、大西氏は再び奔走した。遂に中央の東京へ出て、政府を動かし、東京大学を動かさねばなるまいと思い込んでいた。
昭和30(1955)年から東京大学の服部四郎博士らは、アイヌ語方言調査のために北海道全土を訪ね歩き始めた。樺太方言を担当した服部は、常呂町に樺太から引き揚げたアイヌの家族が幾組か住んでいることを聞きつけ、さっそく常呂町へ向かった。そこで、樺太方言の希有の話し手である藤山ハルと出会うことになる。これが東大文学部と常呂町との出会いである。 このとき、服部の宿に大西信武が訪れた。東大の先生が常呂町に来ていると聞き、その機会を逃してはならないと服部の宿を訪ねた。そこで服部に、常呂町が遺跡の宝庫であることを弁じた。服部はそれをじっと聞いていた。しかし、しだいに話はアイヌの生活問題に移り、それ以上遺跡について切り出せぬままその年は別れた。
翌昭和31年夏、ふたたび常呂を訪れた服部を大西は訪ね、意を決して、ぜひ遺跡を見てほしいと切り出した。そのあまりの熱意に、服部は言語調査で多忙の中、大西に従って一日つぶして遺跡を見て回った。その重要性を認めた服部に、東大の考古学者をぜひ常呂町に呼んでほしいと大西は願い出た。服部は駒井和愛(カズチカ)という先生がいるからその先生に一度見に来るように話をすると快諾した。
服部は東京に帰って、約束通り駒井和愛に話をした。駒井はすぐに大西に電報を打つ。「ハットリシヨリトコロイセキニツキキイタ スグ ユク アトフミ」。駒井は服部の紹介状を携え秋に常呂を訪れ、大西の案内で遺跡を見て回った。その結果、考古学科として毎年調査をすることに決めた。
実際の発掘調査は翌昭和32(1957)年から始まった。その調査で出土した遺物の一部を公民館の片隅に陳列していたが、毎年調査を続けていると次第に手狭になってきた。そのため、町でサロマ湖のほとり栄浦に建物を建てることになった。昭和48(1973)年に、文学部附属北海文化研究常呂実習施設という東京大学の正式な施設となり今日に至っている。助手を含め教官わずか2名という小さな施設である。
北海道では、南北双方からの文化的影響が見られる地域であり、南西部と北東部とでは文化に地域差が見られる。その境界は石狩・苫小牧低地帯付近のようだ。
北海道の縄文時代は、本州から土器が渡来して、8千年前ごろ始まる。早期の頃は、沈線、爪形、貝殻文などの土器群が、道南には東北地方と共通の尖底土器が多く、北東部では平底土器が発見されている。その後、道南西部では東北地方と関連した「円筒土器」があるのに対し、道東部では「押型文・櫛目文土器」が現れるなど地域的な変化が現れる。また、道東にシベリヤから石刃鏃文化が流入した。標高約18~20mの常呂川右岸台地にある北海道常呂町のトコロ朝日貝塚の規模は長さ110m、幅60m、貝層の厚さは最大40㎝と大規模である。石槍・削器・掻器・砥石・石斧・石刃鏃などと共に、口縁部下に1㎝ほどの円形の刺突文(えんけいしとつもん;丸い押し型が連なった文)が施された土器が見つかっている。この土器は筒形で粘土と植物繊維を混ぜて作られている。石刃鏃はサハリン、沿海州、バイカル湖周辺など北東アジアと共通性がある。貝類はカキ貝が主体で、ベンケイガイ、タマキガイ、ホタテガイ、ハマグリ、ヤマトシジミ、ウバガイなどを採集し、アシカ・トド・、ヒグマ・クジラ・イヌなどが食肉源で、鳥類はカラス・マガモ・サギ類など、魚はヒラメ、ボラ、サケ、スズキなどが多い。温暖な縄文中期を経た貝塚であっても、極めて豊富な魚介類・哺乳類が獲れ食料資源に恵まれていた。
トコロ朝日貝塚の岐阜第2遺跡17b号住居跡は約6,000年前のもの、平面形は隅丸方形、長軸は約10mの大型住居であった。北海道十勝郡の浦幌町共栄B遺跡同様、中央に炉を備えていたとおもわれる。岐阜第3遺跡では昭和46(1971)年から1974年に、31軒の住居跡が発掘されているが、TK67遺跡では掘り込みの浅い多角形の住居が調査されている。
網走郡女満別町(めまんべつちょう)中心部から南西方向およそ5.5kmの地点で、網走川西岸の標高8mほどにある河岸段丘辺縁に位置する、女満別町の豊里遺跡は、約8千年前頃には段丘の裾を海水が洗い、現在より2~3度暖かであった。陸地ではモミ・トウヒなどの針葉樹やミズナラ・シラカバ・ヤナギ・ブナなどの落葉樹が生い茂っていた。
出土遺物には、イルカ・トドなどの海獣、エゾシカ・クマなどの陸獣、ニシン・ヒラメ・カレイなどの寒冷系の魚類及びブリ・スズキなどの暖流系魚類などが混じっていることからも、気温が現在より温暖であったことが分かる。
豊里縄文人は、小形石刃の先端を加工して、特異なヤジリの黒曜石製石刃鏃を作る。その石刃鏃とは、両側縁が平行な石刃を尖らし、裏側の縁を加工して刃とする独特のやじりだ。石刃鏃は縄文早期のものが主体で、豊里縄文人は、氷河期終末期に、中国の東北地方・東シベリヤ地方などから、北海道東部に移ってきたと見られている。豊里遺跡にはオホーツク文化の影響が色濃く、竪穴住居跡には獲物の骨が積み上げられた祭壇があり、住居内で祈りを捧げていた。住居跡中では刀・斧・網・紡績車など、大量の宝物や道具が見つかっている。
この"石刃鏃文化"の源流は中国の東北地方・東シベリヤ地方・サハリン海岸地方などに分布しており、道内では、東部海岸(オホーツク海沿岸・釧路・根室・十勝地方の沿海岸地帯)の低位段丘上に限定されている。本遺跡からは、大量な石器類が出土し、北海道と大陸との文化的繋がりを究明する手がかりとなっている。また型押文土器(女満別式土器)が出土し、浦幌(うらほろ)式以外の土器の存在が明らかになった。縄文早期の石刃鏃文化は、十勝郡浦幌町(うらほろちょう)の共栄遺跡で最初に発見された。石刃鏃と共に、紐を木片などに縛り付けて土器上を転がして付けた絡条体圧痕文を口唇・口頭部に刻む平底深鉢土器(浦幌式土器)を伴っていた。
シベリアのアムール流域に、同種の石刃鏃が存在している。浦幌式土器も、アムール河口の遺跡からも発見されたことから、石刃鏃文化の源流はシベリアに遡るのではないかと見られている。
ソバなども北回りで伝来した可能性が指摘されいる。函館市南茅部町のハマナス野遺跡では、縄文前期のヒエとソバの炭化種子が竪穴住居跡の中から見つかっている。同じく北海道の縄文早期にシベリア方面から石刃鏃文化が伝来したその後も、弥生文化に先駆けて、北海道、東北では北からの影響を受けつつ、それを巧みに吸収し、東北アジア北部に共通の「ナラ林帯文化」を形成していった。しかし、日本海の荒波に妨げられて、細々と交流が継続したという程度だったとみられ、大陸からの影響は、縄文文化の核心を左右するようなものではないようだ。
ナラ林帯文化とは、ミズナラ、モンゴリナラ、ブナ、シナノキ、カバノキ、ニレ、カエデなどで構成される落葉広葉樹帯で、生業を重ねてきた東北アジアの文化だ。縄文文化は典型的な農耕段階前のナラ林文化として位置付ける人もいる。
縄文期を通じて定住性が高まり、他地域への遊動性が低下し、早期末から前期初頭にかけての温暖化による縄文海進により、海峡の幅が最大になり、渡海が困難になると同時に、必要性も低下した。以後、列島の孤立化、そして縄文文化の独自性が確立されていった。縄文文化のなかで最も絢爛たる文化の花を咲かせたのは、東北地方を中心に栄えた亀ケ岡式文化だ。
前述したように、縄文前期(約5,000~6,000年前)から中期(約4,000~5,000年前)には、縄文海進が起こる。千歳の美々貝塚(びびかいづか)は、そのあたりまで海になったことを示している。気候の温暖化も進み、縄文時代の最盛期を迎える。そのころの平均気温は今より2~3度高く、縄文海進により、海面は4~5m高く、北海道では函館、室蘭、苫小牧、石狩などの低地に海が入り込んで、浅瀬や入り江が入り組んでいた。
温暖な気候のせいか、この時期の縄文遺跡は特に東日本に多く、中でも東北から北海道にかけて大規模な集落が多く見つかっている。縄文時代には日本列島の中心は東日本だったといわれている。
三内丸山遺跡が東北の代表とすれば、北海道側の代表は、函館市南茅部町(みなみかやべちょう)から八雲町、伊達市にかけての内浦湾(噴火湾)沿岸に点在する遺跡群があげられる。中でも89ヶ所に及ぶ南茅部町の遺跡は、その規模や出土品の貴重さから、三内丸山遺跡に匹敵するといっても過言ではない。
北海道と北東北でそれぞれ縄文遺跡の発掘調査が進むと、両者には多くの共通性があることが明らかになってきた。最も明瞭なのは土器の形状で、筒型平底の土器を多用することから、全域を包含して「円筒土器文化」と呼んでいる。その他、住居や装飾品などにも多くの類似性が見られる。
北海道函館市南茅部町の大船C遺跡は南茅部町の中心から8kmほど北西を流れる大船川の左岸、比高20mに位置し、背後には栗の木山や水量豊富な湧水、前面には海産資源が豊富な噴火湾が拡がるなど、集落を維持するのに必要な自然環境に恵まれていた。いまでも大船川をサケ・マスが遡上する。
町営の墓地造成に先駆けて発掘調査がされたが、縄文前期末から中期終焉まで約1,000年間続いた大規模集落跡であることが判明した。
平成8年以降断続的に発掘調査が実施され、現在も継続されているが、遺跡全体の拡がりは7万㎡ほどにも及ぶと見られ、今後は山側に向けて更なる発掘調査が進められるそうだ。今日までの調査で、密集し重なり合う竪穴住居址110軒・墓穴とみられる土壙64ヶ所・大量の生活遺物が出土した盛土遺構などが発掘されている。サケ・タラ・マグロなどの魚類、ウニ・カキといった海産物、シカ・オットセイ・クジラの哺乳類、クリ・クルミ・トチ・ブドウ・ヒエといった植物種子など、当時の食生活をうかがい知ることができる史料も出土している。石器、土器などに混じり、ミニチュアの土器、垂飾等も共伴した。子供用のおもちゃと装身具であれば面白い。穀物・種子などを磨り潰す石皿が出土している。直径が20~30㎝ほどの比較的両面が平らな石で、石材は様々だが約2千という数の出土であった。炭化したクリの実がまとまって200粒ほど検出された。主な生業が植物採集であったようだ。
今後とも、近くに湧水があることで、水場遺構のほか墓域などの検出が想定されている。平成13(2001)年に"大船遺跡"として国の史跡に指定された。
大船遺跡は、今から6,000年も前に、北海道と東北地方北部との間に活発な人の往来があった痕跡を遺す。一般的な竪穴住居は長さ4~5m・深さ0.5mほどの大きさに対し、長さ8~11m・深さ2.4m以上の大型住居が10数軒あった。防寒対策と共に食糧の備蓄スペースが必要だったためと推測される。住居址の床には8本ほどの柱跡、直径30㎝ほどの大きな穴が壁沿いに穿たれている。床の縦長の一方の隅近くに、石組みの小さな炉の痕跡があった。火災で焼けた住居跡もあった。
平面が円形・楕円形住居と共に、船形住居も見られる。最終的には住居址が1,000軒を超える大集落が推定され、同時代の"三内丸山遺跡"に匹敵する縄文遺跡として期待されている。 大船遺跡の集落が最も拡大したのは中期後半(約4,500年前)で、その後中期末から縮小し、後期初頭(約4,000年前)には消滅したといわれている。炉の形態も小型の土器埋設炉から大型の石囲炉へと変わっている。寒冷化という気候変動に耐える生活が偲ばれる。
秋田県潟上市昭和町でアスファルト(接着剤)などが多量に出土している。日本では、縄文時代、アスファルトを弓矢の鏃(やじり)と柄との接着剤として、釣り針にみち糸を付けたり、土器や土偶等の欠けた部分の補修などに使用されていた。アスファルトを使い石刃を柄につけ、槍にしていたこともわかっている。函館市南茅部町の豊崎N遺跡からは、土器のなかにびっしりとつまったアスファルトがそのままのかたちで出土した。このアスファルトは、分析の結果、秋田県潟上市昭和町槻木が原産地とわかった。同じく南茅部町の磨光B遺跡からは、住居跡のなかに炉のように掘られた穴の周囲に2つの大きなアスファルトの固まりが見つかっている。穴の中に炭化の痕跡があり、この炉でアスファルトに熱を加え溶かし加工した工房だったようだ。
約3,500年前、秋田から津軽海峡を越えてアスファルトを交易するルートが存在し、他には新潟にしかない希少で高価なアスファルトを加工した工房と、専門職人たちがいた。
古代メソポタミア文明の壁画などに、大規模な天然アスファルトの利用がなされている。紀元前3,800年頃のチグリス・ユーフラテス河流域、現在のイラク地方に誕生した古代メソポタミア文明だ。ここは石油の産地で、当然、天然アスファルトも豊富にあり、人々は接着剤として利用してきた。イラクのウル地方から出土した「ウルのスタンダード」は、紀元前2,700年頃の壁画で、貝殻や宝石を天然アスファルトで接着している。古代メソポタミア文明の技術を継承した古代バビロニア帝国では、天然アスファルトによってレンガを固め、巨大で堅牢な建造物を数多く造った。また、道にレンガを敷き詰めて、それを天然アスファルトで固定することも行っていた。
旧約聖書に出てくる「バベルの塔」は、古代メソポタミアの人々の間で語り継がれていた物語が原形だとされているが、その実在が古代バビロニア帝国の首都・バビロンで確認されている。天然アスファルトの接着力が、当時としては驚異的な建造技術を可能にした。
縄文後期は縄文海進が終わり、現在よりも低温な寒冷期となった。そのため人口が激減する。縄文後期の後半以降、気候が回復し、遺跡の数も増えた。その時代北海道に特徴的なものがストーンサークルだ。これは墓地と考えられている。これは、北方との文化交流の中でとらえられる。縄文後期後半になると、土塁を築く環状土籬(かんじょうどり;周堤墓)の形式に推移した。環状土籬は、いわゆるストーンサークルの環状列石とは違い、石ではなく穴を掘り、その土を周囲に積み円形に盛り上げる。これに同じようなものがサハリンでも確認されている。また、別の場所では人骨も確認されているので、北方系の民族のお墓といわれている。
縄文晩期になると、東北地方の亀ヶ岡文化の影響を受け、呪術・儀式という精神文化の高揚がみられる。