縄文時代の地域的特性


縄文時代の定義

転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/jyoumon/


 何をもって縄文文化の始まりとするかは、諸説あるが、通説通り土器の出現を縄文時代の始まりとする。
 竪穴式住居などによる定住化と、煮炊きする土器により、それ以前には食料にすることができなかったものを、食料化することによって、年間を通しての食料の確保が可能になった時代となった視点も加味する。但し旧石器時代にも伏屋式住居は存在し、獣皮・樹皮を器としストーンボイリング(熱した石を使った調理)を行っていたと考えられている。
 人類の祖先がチンバンジーの祖先と分かれた約600万年前以降、頻繁に遊動を繰り返し、広範囲に散らばる資源を効率よく利用してきた。たかだか1万年前頃、漸く定住化した狩猟採集社会が登場する。計画的な狩猟採集生活が保障される環境が整った豊かな台地に定住するようになると、動植物の生態への理解が深まり、派生的に農耕・牧畜が始まった。移動生活を繰り返さなくても長期間食料を確保できる知恵・技術・計画性の向上により、安定化した定住生活が確立され、乳幼児を抱える親や高齢者の負担が減り、次第に人口増加へ繋がった。
 青森市大字三内字丸山の三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期(約5,500年前~4,000年前)の大集落跡で、そこでは、長期間にわたって定住生活が営まれて、更に栗・瓢箪、牛蒡(ごぼう)、豆等の栽培もなされていた。

 今から約1万3千年前に最後の氷河期が終わり、その後約1万年前に、温暖な間氷期への過渡期といえる比較的温暖な晩氷期が始まる。
 自然環境の変化は、その都度、人類の生存生活に、大きな試練を与えてきた。それに適応しょうとする懸命な努力が、文化発展の画期となった。日本列島においても、この現象の例外ではない。この温暖化は大型哺乳類の生息環境の悪化を招き、同時に人類の人口増加による乱獲と相まって大型哺乳類の減少を引き起こし、新たな食糧資源を探す必要性を生じさせた。それ迄の遊動・狩猟活動主体の生業体系に、根本的な変革を迫られた。一方、この温暖化は、木の実を豊富に生産する落葉広葉樹の森を育成することとなり、半ば必然的に植物性食料へと、人々の目を向けさせることとなった。縄文人の生業活動は、落葉広葉樹林の高い植物性食料の供給力に支えられるようになり、これにより、縄文文化的定住を実現するための基盤が、整っていきた。
 縄文文化確立の前提条件としての「縄文的な定住化」が、はるか1万年以上も前、まず九州地方南部で始まったことにもそれが理由である。
当時は、最終氷期の名残で気候は今よりかなり冷涼、極地を被う大陸氷河も厚く、日本列島周辺でも海面が40メートルほど低かったと言われている。それが次第に温暖化していく過程で、日本列島でまず落葉広葉樹林が形成されたのが、低緯度に位置した南九州の地であった。縄文時代前期を頂点とする気候温暖化の進行をなぞるように、縄文時代早期前半には関東地方、近畿地方、そしてそれに続いて東北地方へと、落葉広葉樹林帯が広がり、それにより高緯度地域にも縄文文化的な定住が可能になっていった。
 しかし、後述するように、更なる気候の温暖化は、近畿地方以西の植生を、やがて常緑照葉樹林に置き換えていく。堅果(けんか;果皮が木質か革質で堅いブナ・クリ・トチ・コナラなどの果実) 類採集による植物性食料依存型の生業が困難になっていった。その結果、縄文文化は東日本を主体に発展する。 そんな環境変化の中、木の実などの採集・貯蔵、煮炊き用の容器の必要性から土器が進化した。約1万3千年前という時期には青森県大平山元(おおだいやまもと)遺跡から無文土器と、一群の最古となる隆起線文(りゅうきせんもん)土器が出土した。
 同時期のものとして、長崎県佐世保市瀬戸越町の泉福寺洞窟遺跡から最古の土器とされる豆粒文(まめつぶもん)土器が、佐世保市吉井町の福井洞窟遺跡からは隆起線文土器が出土している。この時期、九州北部のいくつかの遺跡では、大陸起源の"細石刃(さいせきじん)"が、土器ともに出土している事実も見逃せない。
 縄文文化草創期、九州地方北部と東北地方北部が重要な初源的地域であった、しかし、縄文時代の起源に関しては、未だ、今後、発掘される遺跡によってしか解明されようもない多くの課題が残されている。多くの人々の真摯な根気作業よる、多年の努力の積み重ねによって成果を生む、野尻湖の立が鼻遺跡の長年の調査が好例である。なにより重大なのは、発掘調査は一方では、遺跡の破壊でもある。それは、高松塚古墳における文化庁のずさんな調査だけの問題ではない。








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