諏訪の民話 


民話

転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/minwa/mi.htm


 日本各地で伝承されている巨人デイダラボッチ(ダイダラボッチ)伝説は、東北、中部、関東地方を中心に語りつがれています。その地方の山や湖を作ったと伝えられています。
 富士山もダイダラボッチがつくったそうです。琵琶湖は富士山を作る為に土を掘った跡で、琵琶湖で足についた泥が落ちた所が淡路島なのです。

 諏訪のデイダラボッチ伝説は富士山八ヶ岳の背くらべから始まります。
 八ヶ岳は、昔は富士山よりも高かったのです。あるとき富士山の女神・木花咲耶姫(このはなさくやひめ;浅間様)と八ヶ岳の男神の権現様が、どちらが高いかあらそいを始めました。「私の方が高い」「いや、私の方が高い」と、たがいに、ゆずらなかったそうです。
 そこで二人の神は、あみだ如来様と言う偉い仏様に、どちらが高いか比べてもらうことにしました。
 如来様も、たいへん悩み「それは、こまったことだ。うん、それでは水は正直だから、水で高さを決めよう。私は、おまえたちの頭から頭へ、といをかけて水を流しこもう。水は、高い方から低い方へ流れるから、それで分かるだろう」といいました。富士山の女神も、八ヶ岳の男神も、そのくらべ方に感心し承知しました。
 如来様は苦心のすえ、やっと八ヶ岳の頂上から、富士山の頂上に、といをかけました。やがて水を流しこむと、なんと水は、富士山の方へ流れて行ったのです。
「もう、あらそいはするな。女神おまえの方が低い」と如来様に言われ、富士山の負けと決まりました。
 しかし、気の強い富士山の木花咲耶姫は、負けたくやしさに八ヶ岳の頭を太い棒で、おもいっきりたたいたのです。すると、八ヶ岳は、八つにわれて、今のように八つの峰ができて、八ヶ岳は富士山よりも、低くなってしまいました。その八つの峰が、現在の天狗岳(2646m)、硫黄岳(2765m)、横岳(2829m)、阿弥陀岳(2805m)、赤岳(2899m)、権現岳(2715m)、西岳(2398m)、編笠山(2524m)となりました。八というのは多いという意味です。
 八ヶ岳は、もともとは美しい円錐形の姿でしたが、高さ比べに負けた富士山に棒でなぐられて、八つにわれ、ごつごつになってしまいました。それを見ていた八ヶ岳の妹蓼科山は、お兄ちゃんが可愛そうといって泣き続けました。その涙が貯まって諏訪湖になりました。
 ちょうどそのころ、とてつもない大男がどこからかあらわれて来ました。背の高さは雲をつんぬけ、ひと歩きの幅は4kmもありました。それで誰がいうでもなく、この巨人を「デイダラボッチ」と呼ぶようになりました。
 デイダラボッチは、おいおい泣く蓼科山がうるさくてたまりません。「泣くと諏訪湖に放り込むぞ」と、蓼科山をかかえあげようとしましたが、あまりの重さに足が土の中にめり込んでしまいました。その足跡が北八ケ岳の双子池になりました。
 それでも「おれが、あの湖をうめてやるわえ」と大きな手で八ヶ岳を削り取りました。ふたつの大きな土の塊をおんがら(麻の皮をはぎとった茎)で作ったもっこに山盛りにして、科(しな)の木の天秤棒で、「よいしょ、よいしょ」と担ぎ上げます。そして、諏訪湖を目指して、すたこら歩き出したときです。天秤棒が真ん中からポッキリ折れて、もっこのまま、ドサンと落ちてしまいました。
 代わりの天びん棒を作らなければなりません。下を見下ろすと、矢ヶ崎辺りで農家のお婆さまが、田んぼの肥料にするため木や枯れ草を積み上げて焼いていました。風が強い日でしたので火種が消えそうです。
 デイダラボッチは腰を折り、しゃがんで「婆ちゃん、すまんが、木を一本分けておくれや」とたのんだ。すると火が勢いよく燃え出して、木や枯れ草はたちまち焼けてしまいました。
 婆さまは「おめえ様が、風よけとなったで、木がすっかり燃えちまただ」と、気の毒そうに、でかい顔のデイダラボッチにあやまりました。
 それやこれやで、デイダラボッチは、代わりの丈夫な天秤棒を探し、ようやく見つけもどりました。もっこを担ぎ上げようとしましたが、ふたつの土の山はすっかり地面にくっついて小山になっていました。気の短いデイダラボッチは「ええいめんどっくさい」とすたこら歩いて、どこかへいってしまいました。この置き去りにされた二つのもっこが、諏訪の山浦地方の小泉山と大泉山なのです。
 さて、気の短いうえに、移り気なデイダラボッチは、今度は松本の方へ行こうとします。塩尻峠をひとまたぎしようと、諏訪湖の中をじゃぶじゃぶと歩いて行きますと、急に右足が、ずぶずぶと深みにはまって抜けなくなります。びっくりし懸命に足を踏ん張り、ようやく抜いて、峠をまたぎました。でいらぼっちほどの巨人の足が、抜けなくなる深淵(ふかんぶち)を「底なし」と呼ぶようになりました。
 デイダラボッチが諏訪から去って、ずいぶんと静かになりました。昔は山と川一つずつ、沼や湖にも一つずつ、神さまが住んでいました。乱暴なでいらぼっちがいなくなって、諏訪の神さまみんなが安心して暮らしていました。そうして何百年もの月日が過ぎていきました。里にも多くの人々が、稲を作って暮らしを始めました。それでも、遠いむかしの、お話です。まだ諏訪の平は一面の湖水で、金子村、赤沼村、飯島村などもありませんでした。

 また二人の巨人がやってきました。足長さまは男の神さまで、それはそれは足の長い大きな神さまでした。手長さまは女の神さまで、それはそれは手の長い大きな神さまでした。でもデイダラボッチと比べれば随分小さく、おとなしい神さまでした。住んだ所が、諏訪の四賀にある普門寺の村のまん中あたりの、おみしゃぐじという平らな所でした。そのころは、目の前が湖水でした。
 諏訪の明神様は、ちょくちょく下諏訪にいるお妃(きさき)に会いに出かけます。冬に諏訪湖が氷ると、かまいたちのような速さで通られるので、静かな諏訪の夜空に「バリバリッ、バリバリッ」とおごそかな音が響き渡ります。諏訪人々は、夢うつつの中で、今夜は明神様の「御神渡り(おみわたり)」と知るのでした。翌朝、氷が盛り上がり高さ30cmから1m80cmくらいの氷の山脈ができます。諏訪湖の南側・上社から、を建御名方命が下り立ったところということで、「下座(くだりまし)」と呼び、北側の下社に上がったところ、「上座(あがりまし)」と古くから呼ばれています。
 そのころ上原の行屋(ぎょうや)に住む一人の若い修行中の行者様がいました。人々にあまり知られていないので「御神渡りを見た、初めての徳の高い行者」として、有名になろうと考えました。
 行者様は毎夜、寒い諏訪湖の「御神渡り」の場所で待っていますと、寒さが一段と厳しくなり、がまんができなくなった時、「バリバリッ、バリバリッ」とおごそかな音が、鳴り響きます。行者様は緊張と寒さに震えながら目を見張ります。何も見えませんが、何かの気配がします。
「うん! 待てよ」と言う声が、夜空に雷光のように響きます。
 直ぐに「手長、足長はいるか」と静かな命じるような声がします。
「はい、共にお側に控えています」と、穏やかな声が、頭上でします。
「よし、この氷の上で、わしの姿を見ようとする者がいる。わずらわしい、取り除けてくるがよい」
「はい、おおせのようにいたします」」と言う声が、夜空を通して聞こえてくると同時に、行者様の腰の帯に大きな手が伸び、ふわっと空高く持ち上げられます。
「あなた、あとはお願いね、足長」と優しい声がします。
「よしきた、手長」と野太い声がすると、一段と高く持ち上げられます。
 行者様は、違う手に渡され、大股で運ばれた感じがしました。やがて、白砂の上に下ろされました。前は大海原です。そこは遠州(静岡県)は浜松の中田島砂丘でした。夜空が開け、遠州灘から吹く風が、砂浜に生み出す美しい風紋を見続けて行者様は、多くを悟り同時に自分の修行の未熟さを悟り、再び信濃国にもどり、戸隠山へ修行の旅に出ます。その後、この行者様の噂は聞こえません。ただ戸隠に隠れた行者様の修行一途の姿が、戸隠山に多くの修行者を呼び寄せたようです。
 足の長い足長さまが、手の長い手長さまをおぶると、ひとまたぎで湖に入ります。手長さまは、それは長い手を伸ばして、ゆっくりとコイやフナなどの魚をつかみ、背負いの足長さまに手渡します。時にはシジミやカラスガイなどの貝をとっては、背負いの足長さまに手渡します。
 それから、おみしゃぐじという平にひとまたぎでもどりますと、そこを鎮守する、それはそれは大きなケヤキの枝を折り取って、まきにしますと、お二人であぶって食べました。諏訪湖の反対側の小坂の観音さまも、お二人のそのお姿が見えて、うらやむほどの仲のよい暮らしでした。
 いつの日か、足長さまと手長さまは、ご一緒に、今の足長神社のある丘に祭られるようになりました。その後、桑原郷が上桑原村と下桑原村に分かれるようになると、手長さまが下桑原村のうぶすなさまとして、お移りになり、手長神社となりました。

 注釈1
フォッサマグナで、その西側の縁が糸魚川(いといがわ)‐静岡構造線という断層群で、その中心が諏訪湖です。デイダラボッチは、その深みに足をいれてしまったのです。実は諏訪湖は昔、大きな地震で断層がずれて、そこに水が溜まってできた湖だったのです。
この時、左ずれ運動(断層線を境にして向い側が左にずれているものを左ずれ断層と呼び、向い側が右にずれているものを右ずれ断層と呼びます。)により、「深さ800m」が「横に12km」ずれたそうです。諏訪湖は標高759m、最深部6.7m、平均深さ4.4m、注ぎ込む河川31、流れ出る川は天竜川一つだけです。
  注釈2
麻のような草木の繊維から取る糸は、天然の繊維ですので細く裂けます。これを細かく細く均一に裂いてつないで作ります。こうして糸を作ることを「績む(うむ)」といいます。長野県東筑摩郡麻績村は信州の真ん中あたりに位置しています。美しい自然にあふれる麻績村は、『おみむら』と読みます。現在は水稲と煙草の生産が主流ですが、遠い昔、麻糸作りが盛んな集落であったのでしょう。
  注釈3
普門寺御社宮司社(ふもんじみしゃぐじしゃ)の欅(けやき)は、長野県諏訪市四賀普門寺の地籍です。社名は単に御社宮司社(みしゃぐじしゃ)ですがが、諏訪郡には同名の神社が多いのです。建御名方命が来諏する以前の、守屋一族が祀る自然神と考えられますが、具体的な像が浮かびません。しかし諏訪大社発祥の地、諏訪上社前宮近くの守屋屋敷近くに、清楚な御社宮司社の祠があります。
普門寺一帯が諏訪大社の神領であったと言う記録は、江戸時代にはありませんが、今も12月に大社から人がやってきて祭事を執り行っています。また、汚れを嫌って、周辺の田畑に肥料として人糞を撒くことはしなかったという伝承があります。今は畑になっていますが、もともと土地が痩せていて、あたり一面桑畑でした。現在の畑は、いわゆる日曜菜園の類で、市街地の人たちが耕作しているようです。欅は300年ほど前に植えられたと伝えられています。毎年、周囲の家では、たくさんの葉が落ちて雨樋が詰まって大変で、切ってしまえと言う意見も多いそうです。昔は欅がもう1本あったそうですが、畑の日当たりが悪かったり、落葉に手を焼いたりして、切ってしまったようです。
 注釈4
足長神社は諏訪市四賀足長山の地籍にあります。萩を以て社宇の屋上を葺いたことから萩の宮とも呼ばれたと伝えられています。足長の神は、本文で記したように、初めは手長の神と共に当社に祭られていましたが、手長神は下桑原郷に分祭されました。
口頭伝承によれば、足長神は手長神を背負って諏訪湖で貝や魚を取ったと言われています。また大きな長い草鞋を奉納すれば足長神が旅の安全を守ってくれると言う御利益伝承もあります。社の下の諏訪湖の道沿いが旧甲州道中であった事によるのでしょう。戦国時代までは、この地域は、諏訪湖東岸沿いを歩いていたのです。
 注釈5
手長神社は諏訪市茶臼山(ちゃうすやま)にあります。上諏訪駅の東側の小高い山ですが、現在は宅地化されています。日根野高吉が現在の高島城を作る前は、ここに高島城がありました。手長の神は建御名方神に随従して四隣開拓にあたり、抜群の功績を残したと言う伝承もあります。
祭神は手摩乳命(てなずちのみこと)となっています。なんと八岐大蛇(やまたのおろち) 退治の神話に登場する櫛稲田姫(くしなだひめ)の親神とされています。建御名方神の祖母にあたります。
おそらくは建御名方を奉ずる者に支配された先住民が、以前から信仰する産土(うぶすな)神がいたのでしょう。やがて、伝承が変わると、祭神も建御名方神に近い手摩乳命になったのでしょう。
豊臣時代、諏訪湖畔に築かれた高島城の艮(うしとら;北東)にあたるところから高島藩時代には城郭鎮護の鎮守社とされ、下桑原郡の産土神として現在も崇敬されています。産土神は生まれた土地の守り神さまです。近世以降は氏神や鎮守の神と混同されるようになりました。
  注釈6
普門寺があった地域は、江戸時代、上桑原村と呼ばれていました。村人は車山から霧ヶ峰にかけての山野で、日常生活に必要な燃料、田畑の刈敷肥料、家畜の飼料、農家の建築資材などを採取していました。上桑原山は、南は諏訪湖カントリークラブのある野田原(のたつぱら)から、蛙原(げえろっぱら)とカボチョ山も含み、北は現車山から霧ヶ峰の大部分と八島湿原の鎌ヶ池までに及ぶ地籍です。








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