『すわものがたり』・神話編
転載元 https://suwaarea-examine.com/suwamythology.html
鬱蒼と繁る木立を抜けて、急な坂を昇りきると、突然に草原に出た。そして、見下ろす遥か眼下に、一面の湖水が広がり、景色の変化を告げた。タケルは、塩嶺から見下ろすこの景色が好きで、足しげく眺めに訪れた。
後に『諏訪湖』と言う名で呼ばれる湖は、21世紀の現代よりはるかに広く、標高800㍍まで、その喫水線があった。今の平地はほぼ全て湖水であり周囲の山々に囲まれて、神秘的な光景を写し少年であるタケルの心を虜にしていた。
小谷の山奥で生まれたタケルは、木崎、中網、青木の3つの湖は幼少より親しんだ景色だったし、母であるヌナカワヒメが住まう糸魚川の館から見える日本海の大海原にも憧憬の念は抱いていたが、奥山の山懐に大きく広がり、蒼い光を放つこの湖には、なにか、これらとは違った『神秘』を感じたのである。初めてこの湖を観たのは、まだ幼い頃、叔父である安曇族の長(おさ)であるホタカミに手を引かれ登ったこの場所からの景色だった。
タケルは、峠を降りて湖まで行きたいと言ったが、ホタカミは、『この峠を境に向こう側は、モレヤと言う恐ろしい呪術を使う一族の統べる土地だ。たから、ここを越えて湖に降りることは叶わない。』と、タケルを制した。
以来、タケルはホタカミの言葉を守り、峠より下ることはなかったが、折に触れ、この湖を眺めに来ることはやめなかった。
そして、今回は少し違った気持ちで、湖を眺めていた。
元服の年頃を迎えたタケルは父の住まう出雲(イズモ)の宮に出仕することとなり、慣れ親しんだ安曇(アズミ)を離れることになった。今日は、湖に別離(わかれ)の挨拶をするとともに、今度戻って来たときは、力をつけてこの峠を下り、湖の畔に立ちたい、その誓いを新たにしたのである。
後にタケミナカタと呼ばれるイズモのタケルのものがたりをこれから語って行くのだが、それには、少し時代(とき)の川をさかのぼることが必要であろう。
時間は遡ること十数年、場所は高志(コシ)の国からこのものがたりを語り始めよう。
『出雲の国と高志の国』
タケルが生まれる10年ほど昔。
その頃のこの国は、多くの小国に別れ、それぞれが自給自足の暮らしを行うのが国の姿であった。しかし、ある年のこと。九州北部宗像を故郷とする安曇(アズミ)族が、船により日本海沿いに航海に出でて、出雲、若狭、高志(越=コシ)と民族の大移動を行うと同時に、高志の国からは上陸をし、アルプスの険しい山中にわけいり、いまの安曇野に根付いたのである。
高志の国では、代々女性が国を治めてきたのだが、そのヒメのうちの一人が安曇族の大王であるホタカミと結婚し、平和のうちに友好関係をむすんだのである。
山の中に入った海の民族の名残として、安曇野から松本平らにかけては『お舟まつり』が現代も盛んにおこなわれている。
諏訪大社下社のお舟まつりの柴船が穂高神社のそれに酷似しているのは、下社の女神ヤサカトメが安曇族の神であることにおおいにかかわりがあるのだが、それはまた別の話。
高志の国では、糸魚川周辺で 勾玉の原料になる翡翠(ひすい)を多く産出したので、それを安曇族の海運の力により、西日本の諸国にて売買し、その見返りに、鉄器や稲などの輸入を行う交易により、国力を高めていったのである。
この頃の信濃(科野)の国は、弥生人である安曇族の支配する安曇野と、縄文人であり、黒耀石の交易で中日本から南東北に勢力をのばしたモレヤの一族が支配する諏訪(州羽)、伊那、佐久、水内などに別れ、ちょうど塩尻峠を境に弥生と縄文の時代が別れている状態であった。
同じ頃、信濃からも高志からも遥かな西の出雲の国において、新しい大王が即位したのである。
父スサノオには100人を超す息子がいたのだが、因幡の白兎伝説にあるような、葛藤の後、末子であるオオナムチが国王に即位。
名もオオクニヌシと改めて、出雲王国の大王に就いた。国王に就いたオオクニヌシは、戦と和議の両方を駆使してたちまち各国を併合。数年後には、西日本から中日本にかけて領土を持つ、大国の国主となった。そして、雲をもつく大きな館(やしろ)を出雲に築いたのである 。
オオクニヌシは、領土拡大の方策として、攻めいる先を武力で制圧するだけでなく、政略結婚等による柔らかな併合を得意としていた。そして、今まで安曇族により交易を行っていた高志の国もその手法を用いることにした。
その頃の高志の女王はヌナカワヒメと言って、絶世の美女であった。
因幡、若狭、能登と領土を広げて来たオオクニヌシは、高志の国(いまの越前、越中、越後)に入るにわたり、自らがヌナカワヒメを嫁取ることを考えた。そして、ヌナカワヒメに恋文を送るのだが、ヌナカワヒメはなかなか応じない。諦めきれないオオクニヌシは、古事記で有名な100通を越えるラブレターを送り続け、ほだされたヌナカワヒメは、ようやく求婚に応じたのである。
ここで一言。現代では常識の違いで忘れ去られ勝ちだが、この頃から、平安時代にかけては、『通い婚』と言って意中の女性の実家に、男性が通って求婚、結婚するのが当たり前であったことを付け加えたい。源氏ものがたりで、光源氏が愛する女性の元に通ったのも、そのあらわれである。オオクニヌシの場合、そのスケールが大きかったと理解されると良いと思う。
ともあれ、ヌナカワヒメとの結婚で、翡翠の産地をオオクニヌシは、手に入れたのである。そして、もうひとつ、オオクニヌシはヌナカワヒメとの交合(まぐわい)により、ヌナカワヒメのその腹にひとつの命を宿らせた。
宿した命が、イズモのタケル、のちのタケミナカタになるのだが、それはまた、次回の話。
『イズモのタケル』
オオクニヌシの赤子を宿したとわかったヌナカワヒメは、高志の国をオオクニヌシに差し出し、自分(みずから)は出産の準備のため小谷の山奥(いまの白馬村)に庵を築き、そこに入った。
そして、十月十日の後(のち)玉のように可愛く、元気な男の子(おのこ)を出産した。その知らせは、程無く出雲にも届いた。男の子(おのこ)の出生を喜んだオオクニヌシは、この国でいちばん猛々しく元気に育つようにと、『タケル』と言う名前を考え、ヌナカワヒメにそれでよいか? と尋ねた。
ヌナカワヒメは、『なんと素晴らしい名前でしょうか!! この子がこの国でいちばんの武勇を備えた勇者に育ちますように』と、オオクニヌシに感謝したと言う。
生まれたタケルは、三歳までを母と小谷にて過ごし、その後、叔父である安曇族のホタカミに預けられ、武術や呪術の修行に入った。母のヌナカワヒメは再び糸魚川の館に戻って行った。
活発な少年であるタケルは、安曇野の大地を駆け巡って、時にホタカミから狩りや武術、呪術を教わり、天性の勘の良さで、次々とそれを身に付けていった。叔父のホタカミは、そんなタケルが誇りにも思え、広い安曇野のあちこちに修行につれ歩いた。そんな、タケルと、安曇の穂高の屋敷で、共に育った女の子がいた。歳はタケルより2つ下、ホタカミの娘で、名をヤサカトメと言う。二人は、幼馴染みとして、時に仲良く遊びあった中であった。しかし、お互いに成長するなかで、それは、淡い恋心へと変わって行き、いつしか、お互いがお互いを意識するようになっていったのである。
そして……元服により出雲に昇ることになったタケルは、塩嶺から見る諏訪湖に別れを告げ、叔父のホタカミに長(なが)の教導を感謝し、いよいよ安曇の地を後にして出雲へ旅立つ日がきた。ホタカミは、『ぬしはこの国でいちばんの猛者だ、誰に気後れすることもなく父上と対面して来なさい』とタケルを送り出した。
タケルが、穂高の屋敷を出て沓掛(いまの松川)辺りに差し掛かったところ、道の脇から進み出た一人の娘がいた。それはヤサカトメであった。ヤサカトメは、手作りの勾玉の首飾りをタケルに差し出すと、『この首飾りを私だと思って掛けてください。きっとタケル様を守ってくれましょう』と話した。
そして、タケルの眼(まなこ)を真っ直ぐ見詰めて『タケル様が再び戻られて信濃の王となったときは、私のことを妻として嫁取って下さいますか?』と尋ねたのである。タケルは、勾玉の首飾りを身に付けると、ヤサカトメを抱きしめ、『私が戻って来たときは必ずそなたを妻としよう。それまで暫し待っておくれ。』と声をかけた。そうして、安曇を後にしたタケルは、糸魚川の母の屋敷に立ち寄った。
母のヌナカワヒメは、『タケルの名前に恥じないようしっかり働くのですよ。』と激励し送り出した。タケルは、糸魚川から船に乗り、日本海を港伝いに出雲へと航海したのである。初めての海と、父のいる出雲へと向かう高揚でタケルの胸は高鳴っていた。そして、6日の航海ののち、タケルは、出雲の入り口美保の関に上陸したのである。
『出雲の兄弟』
美保関に上陸したタケルは、まず、かの地を治める、兄コトシロヌシと対面することとなった。独りっ子であったタケルは、母こそ違えども、同じ兄弟に会うのを楽しみにしていた。対面は、到着から一夜あけた翌日行われた。
『兄上、信濃より参りましたタケルでございます。お目通り叶い祝着至極でございます。』
下座に座り挨拶を済ましたタケルが頭を上げ上座を見上げると、そこには、優しげな笑みを浮かべた兄コトシロヌシの姿があった。
しかし、タケルの予想と反して、その姿は少し弱々しさを感じさせるものでもあり、タケルは一瞬狼狽した。その狼狽を見透かしてか、コトシロヌシは、こう、タケルに声をかけた。
『はるばる信濃よりご苦労であったな。私も逢えて嬉しいぞ。見ての通り、私は体が少し弱い。武芸は苦手でもある。そなたは武芸、呪術共に達人だと聞いた。それに、良い面構えをしておる。出雲王朝のこれからを背負うのは、ぬしのような強き男(おのこ)だ。国の弥栄のためしっかり働いてくれ』
その言葉に優しさを感じたタケルは、兄弟とはかくあるものかと感じ『ありがとうございます。不詳ながら、父上、兄上の国作りのお役に少しでもたてたら幸せに存じます。以後お見知りおきを』と、返答を返した。堅苦しい挨拶のあと、互いに打ち解けた二人は、世が更けるまで歓談し、兄弟の絆を深めたのである。
『出雲の大王(おおきみ)』
父への接見が翌日になり、時にゆとりが出来たタケルは、海が見たくなり、稲佐の浜へと歩いて行った。浜に出ると、日本海の心地よい潮風が吹いて来て、タケルはしばし時を忘れて遠くの水平線を眺めた。暫くして、視線を周囲に巡らすと、浜の外れの岩場に釣竿を持ち釣糸を垂れている一人の老人が目に入った。気になったタケルは、老人の元に歩いて行った。
『ご老体、何か釣れましたか?』タケルが問いかけると、
老人は、『ほ、ほ、ほ、』と笑みを浮かべ、『いま、国を釣っておるんじゃ』と答えた。
『国?ですか?』タケルは意外に思い問いかけると、
老人は、『そうじゃ、国じゃよ』ともう一度答えた。
それきり、老人は遠くを見詰め答えなかったので、タケルはいぶかりながら、その場を後に、宿所に戻った。
翌日、タケルは父オオクニヌシに対面するため、杵築の宮に参内した。宮殿の下段にかしずいて平伏すると、家臣が、オオクニヌシの出座を告げた。
タケルは、平伏したまま、『父上、お初におめもじ致します。古志の国はヌナカワヒメか息子タケルにございます。』と告げた。すると、オオクニヌシは、『頭を上げるがよい。』と、返答した。タケルが頭を上げると、そこには、昨日稲佐の浜で釣りをしていた老人がいた。驚いたタケルに、オオクニヌシは『初めてではないな。昨日稲佐の浜で遇っておる。』と答えた。
『父上でしたか、とは知らずご無礼いたしました。』タケルが答えると、
『良い良い。それより、昨日は国が釣れたぞ。』とオオクニヌシが答えた。
タケルは、『どこの国が釣れたのですか?』と訪うと、
『お主が平定してくれた能登国はじゃよ。』とオオクニヌシが答えた。
タケルは、漸く次第が呑み込めて『これは、父上、お人が悪い。』と苦笑いした。
『ほほほ、お主かどんなに成長したか、一足早く見たくなったのじゃ、許せ。』と笑いかけた。
そして、改めて意義を糺すと、『タケルよ、よく参った。立派な猛者に成長して、父は嬉しいぞ。これより、そなたを出雲国の将軍に任ずる。励むように。』と話しかけた。
タケルは『恐れいります。父上のため、出雲の国の為、粉骨砕身いたします。』と、受け答えた。こうして、タケルは、出雲の将軍となり、出雲の国の勢力拡大のため、働くことになったのである。
『信濃へ』
父オオクニヌシの元で将軍となったタケルは、周防国を始めに、次々と領土を拡大して行った。ある時、父オオクニヌシに召されたタケルは、杵築の宮に上がった。
『タケルよ、奮戦ご苦労。』オオクニヌシは、そう切り出した。『ところで、此度は、東海は尾張から、信濃は諏訪までを切り従えて欲しい。』と命令した。『信濃は、そなたにとって故郷でもある。見事統一することを念じておる。』
『有り難き幸せ。必ず信濃を統一して見せまする』タケルはそう答えた。
タケル率いる出雲の軍勢は、尾張を統一し、熱田に祖父スサノオを祀る宮を建て、代々伝わる村雲剣を神体として奉じた。現在の熱田神宮である。その後も、順調に攻め上ったタケルの軍勢は、東山道を北上し、伊那谷に入り、豪族達を従えながら、今の辰野と塩尻の境、小野に陣を構えた。現在の小野、弥彦神社である。
タケルは、そこで安曇族の軍勢と合流した。安曇族の軍勢は、叔父ホタカミが率いて来ていた。
『叔父上、久しゅうございます。此度のご加勢ありがとうございます』
『なんの、それよりタケルよ、立派な猛者になったな。叔父は嬉しいぞ。』タケルにとっては育ての親であり、師匠でもあるホタカミとの再会は、感慨深いものがあった。
『さて、これから諏訪を攻略するとの事。しかし、諏訪には強い呪術使いのモレヤがおる。尋常の戦では片付かないぞ。』ホタカミはそう告げた。
タケルは、『それについては、私に策があります。』と返した。『なら、心配あるまい』と、ホタカミ。『それより、そなたの帰還を待っていたものがおる。逢ってやってくれまいか』と切り出した。
ホタカミが、誰かを呼ぶと、そこには、美しい乙女になったヤサカトメがいた。
『タケルさま、久しゅうございます』
タケルも『ヤサカよ、息災で何より』と答えた。そして、『そなたとの約束は忘れていないぞ。再び信濃に帰還をしたらそなたを嫁取るとの約束を』
『タケルさま、覚えていて下さってヤサカは嬉しゅうございます』
『此度、諏訪を攻略した暁には、祝言を挙げようぞ』と、タケルは約束した。
『ご武運お祈りしております。』とヤサカトメも答えた。
こうして、安曇族の軍勢も加わったタケルの軍勢は、勝弦を越えて諏訪へと進軍したのである。
幼少の頃、いつかは行きたいと願った諏訪に、タケルは一歩をしるした。しかし、そこには、モレヤと言う強敵が立ちはだかっていた。
『モレヤとの決戦』
小野にて安曇の軍勢と合流したタケル率いる出雲の軍勢は、諏訪を目指し王城の峠を超えた。途中、タケルは軍勢を止め、藤の弦を集めさせると、その弦を使って杖を作った。出雲の軍勢が来る事を事前に察知した諏訪のモレヤの軍勢は、天竜川の橋原(川岸東)の地に陣を敷いて出雲の軍勢を待ち構えた。やがて、タケルの率いる出雲安曇の連合軍が天竜川を挟み三沢(川岸上)に布陣すると、しばらくは両者にらみ合いになったが、先に仕掛けたのはモレヤの軍勢であった。
モレヤは、呪術を使い雷雨を起こすと、その混乱に乗じてタケルの軍勢を攻め立てた。しかし、今度はタケルが呪術を使い雷雲を払いのけると、モレヤの軍勢を撃退した。戦は、一進一退を繰り返し、両者に多くの犠牲者が出たが、それでも決着が、つかなかった。そして、とうとう、両軍の大将の一騎打ちで勝負を決することになった。
モレヤは、鉄輪の杖を持ち、タケルは藤弦の杖を持ち、進み出た。誰もがモレヤの勝利を確信したが、打ち合わせる時に、タケルが渾身の呪力を杖に込め打ち合わせると、モレヤの鉄輪は粉々にくだけ散った。モレヤは、敗北を認め、『さあ、我が命奪うが良い』と言った。
すると、タケルは『そなたの呪術は、諏訪の経営にはなくてはならぬ。これより、我に従い、我を助け、諏訪をより良い国にするのを手伝ってくれ』と言った。
モレヤは、タケルの懐の深さに感服し、服従を誓った。
こうして、諏訪の地はタケルの率いる出雲族の支配する土地となった、幼い頃塩尻峠から眺めた諏訪の湖の畔に、タケルは立ったのである。ちなみに、タケルが藤弦を採った峠は、勝弦峠と呼ばれるようになったが、勝利を得た藤弦を採取した場所に因んでの事である。
『春宮・秋宮』
無事諏訪征伐を終えたタケルは、 約束通り安曇野からヤサカを迎え、娶りました。祝言を挙げた二人は、モレヤの斡旋で、最初湖の南側、狩場の八ヶ岳を臨む丘の上に宮居(住まい)を構えました。今の前宮です。そこで新婚生活を過ごしたタケルとヤサカですが、当時の夫婦(めおと)の習いで、ヤサカに新しい宮居を造ることとなり、その土地を探すことになりました。方々探すなか、ヤサカの故郷安曇野に近い湖北に白羽の矢が立ち、その中で、モレヤが斎場に使っていた、杉の湛木のある砥川の畔に最初の宮居が造営され始めました。いまの、『春宮』です。
『ヤサカよ。ここならよかろうよ。湖を舟で渡ればいつでも逢いに来れる』
『それに山を越えれば安曇野にも行けるしな』
『タケル様、ありがとうございます。私はここで民人(たみ)の農耕を見守ります』
『でも、一つだけ我が儘を言って良いですか』
『申すが良い』
『ここからはタケル様のおられる神殿(ごうどの=前宮)が見えませぬ。』
『どこか。タケル様のおわす宮山(みやま=神体山)のみえる場所にも宮居を構えとうございます』
『承知。では、モレヤに適地を探して貰おう』そういうとタケルはモレヤと相談してもう一つの宮居を探しました。
すると、モレヤの家臣でヤサカの執事として一緒に湖北に来ることとなっいたいたタケイが、『八丁先の丘の上に櫟(いちい)の湛木があります。そこが良いかと』と進言。そこにもう一つの宮居が造営されたのです。いまの、『秋宮』です。ヤサカも二つの宮居の場所をいたく気に入り、『タケル様、ありがとうございます。春夏には里の宮(春宮)で民人(たみ)と田を耕し、秋冬には山の宮(秋宮)でタケル様を想いながら暮らせます』と、タケルに返礼しました。
こうして、いまの、『春宮』『秋宮』が営まれることとなり、諏訪を挙げての宮居の造営が始まったのです。
『もうひとつの国譲り』
諏訪の地において、土着の一族モレヤから、出雲族のタケミナカタに、国譲りがなされたその頃、出雲においても、もうひとつの国譲りがなされようとしていた。大陸から、海を渡り、九州地方にその勢力を伸ばした、天孫族が、関門海峡を渡り、長門へと進軍、出雲を脅かし始めたのである。その知らせは、すぐに、出雲のオオクニヌシの元に届けられた。
『天孫族は、アマテラスという女王に治められた国だそうでございます。韓国(からくに)渡来の最新の兵器を用い、馬(うま)という、1日に何十里も駆ける四足の獣に乗って、猛烈な勢いで進軍して参ります。』この頃の日本には、馬がいなかったため、馬乗にて攻めて来る天孫族が、出雲族には、脅威に感じられたのである。
周防、長門、安芸、石見と、出雲の領地は瞬く間に席巻され、その軍勢は、いよいよ出雲に迫って来た。天孫族からは、再三の降伏を促す使者が出雲に送られてきたが、そこは才長けたオオクニヌシのこと、全て懐柔してしまった。しかし、しびれを切らした天孫族は、最強と言われる、タケミカヅチとフツヌシの軍勢を出雲に派遣した。ミカヅチ(雷)を操るタケル、すなわちタケミカヅチは、その呪術により、出雲の軍勢を一蹴。オオクニヌシの住まう杵築の宮に迫った。
オオクニヌシは、信濃諏訪のタケミナカタに、援軍を要請。タケミナカタは、軍勢を率い、急ぎ出雲を目指した。間近に迫ったタケミカヅチは、オオクニヌシに降伏するよう使者をたてた。
オオクニヌシは、『私には二人の後継者がいます。その子にまずはお聞きください。』とタケミカヅチに告げた。
そこで、タケミカヅチは、先ず、美保関にいる長子のコトシロヌシに降伏を迫った。
コトシロヌシは、タケミカヅチの恐ろしさに恐れをなして、舟に乗り、その舟もろとも日本海に身を沈め降伏した。
そこへ、タケミナカタの援軍がようやく到着した。『我が国出雲を掠め取ろうとする身の程知らずはどこにおる!!我がお相手つかまつろう』
『タケミナカタとタケミカヅチ』
タケミナカタが出雲に到達したときは、出雲の国もほとんど席巻された後で、かろうじて、オオクニヌシが杵築の宮に立て籠り、タケミカヅチの猛攻から、宮を守っている状態だった。到達したタケミナカタは、先ず父オオクニヌシに、謁見したが、父の意見は、降伏へと傾いていた。タケミナカタは、『父上、私が来たからには、むざむざと破れることはありません。私にお任せくださいませ。』と力強く宣言した。
オオクニヌシも、『そなたがいたら百人力じゃ!! 出雲の存亡をかけた勝負、宜しく頼む』と、タケミナカタを励ました。タケミナカタと、信濃の軍勢は、地の利を生かした奇襲戦で、タケミカヅチの天孫族軍勢を撹乱、杵築の宮の西の稲佐の浜までと押し返した。不利を悟ったタケミカヅチは、呪術により雷を起こして、その雷に打たれタケミナカタの軍勢も大きな打撃を受けた。お互いに痛手を負った両軍は、最後は両軍の将軍同士の一騎討ちにて勝敗を決しようということになった。
『我が出雲の国を掠め取ろうとする不届きものよ、力比べで勝敗を決しようではないか。』『望むところ、いざ参らん!!』タケミナカタは、タケミカヅチの両手をつかみ、組伏せようとした。しかし、その時、タケミカヅチの両手が鋭い剣となり、タケミナカタは思わず手を離した。すると、今度はタケミカヅチがタケミナカタの両手をつかみ、猛烈な力でタケミナカタの両手を握り潰してしまった。
深手を負ったタケミナカタは、杵築の宮の父オオクニヌシのもとに逃げ込み、『申し訳ありません。力及ばず敗れてしまいました。』と報告した。それにたいしてオオクニヌシは、『そなたは信濃まで退却せよ。信濃には、モレヤや、安曇の民、そなたの子供たち、猛者がたくさんおる。信濃に、新たな王朝をたて、それを護るのだ』と命じた。
『かしこまりました。しかし、父上のお命はいかがなりましょう』
『わしも出雲の長としてむざむざと死にはせぬ、さあ、行くのだ』
『わかりました。父上もお元気で』そういうと、タケミナカタは信濃に向けて退却を開始した。稲佐の浜から、程無く杵築の宮に入ったタケミカヅチは、オオクニヌシの降伏を受け入れた。オオクニヌシは、降伏の条件として、次のように述べた。
『敗れた以上、私も命を差し出しましょう。しかし、私のもとには八百万(やおよろず)の神がおります。その神々を鎮めるため、ここ杵築の宮を雲をつくような大きなものとしてください。そこに私の魂を祀っていただければ、八百万の神々を睨みすえ、あなた方天孫族に従わせることを約束しましょう』
タケミカヅチは、『あいわかった。この国で一番大きな社(やしろ)を建てみあなたの魂を鎮めることを約束しましょう!!』と約定した。
こうして、オオクニヌシはお隠れ(自刃)になり、その御霊を祀る高さ100㍍に及ぶ社(やしろ)がたてられたのである。そして、その宮は杵築宮改め出雲大社(いずもおおやしろ)と呼ばれるようになったのである。さて、信濃に退却したタケミナカタは守りを固め、タケミカヅチの追撃に備えた。やがてタケミカヅチの率いる天孫族の軍勢は、行く先先の豪族を打ち破り従えつつ、とうとう信濃国境に迫ってきたのである。タケミナカタにとっての正念場が、すぐそこに迫っていた。
『州羽の海へ』
タケミカヅチの軍勢の追撃を受けたタケミナカタは、信濃の国深く、諏訪湖の畔に陣を張り、その到来を待ち受けた。負けたらあとのない背水の陣である。ほとなく、タケミカヅチが天孫族の大軍を率い信濃に進軍してきた。タケミナカタは、モレヤや、すわの精鋭と共にゲリラ戦を展開。地の利に勝るタケミナカタ軍はタケミカヅチの軍勢を各地で撃破。一時は高志の国までタケミカヅチの軍勢を後退させた。しかし、タケミカヅチが天候を操る呪術で、雷を起こすと、形勢は逆転。雷に打たれたタケミナカタの軍勢は、多くの死者を出し、再び諏訪湖の畔まで後退を余儀なくされてしまった。
諏訪湖の畔まで後退したタケミナカタは、今度はモレヤと共に呪術を使い、天候を操りタケミカヅチの軍勢を翻弄。岡谷から先、本拠の前宮への進軍は阻んだのである。お互い多くの兵を失った両軍は、ここが潮時と、和議を結ぶこととなった。
まず、タケミナカタが、タケミカヅチに使者を立てて『私は、この信濃から一歩も出ません。信濃一国を安堵くだされば、あなた方に従いましょう。』と伝えた。
タケミカヅチは『是非もない。勇敢に闘われたあなた方の軍勢に敬意を表して、信濃一国を安堵いたしましょう。』と、返礼の使いを送った。
ここに和議はなり、信濃一国を守り通したタケミナカタは、後々まで英雄として民に称えられたのである。
古事記には、破れたタケミナカタがタケミカヅチに許しを求める場面がでてくるのだが、これは、天孫族の支配を知らしめるための誇大表記で、実際は、その後も信濃の支配はタケミナカタが行ったことを考えると、引き分けと見るのが正しいのではないだろうか。
ともあれ、こういう形で、出雲族から天孫族に国譲りがなされ、後々の日本の礎が築かれたのである。
『科野の経営』
国譲りの争いも終わり、タケミナカタはモレヤの力を借りて信濃の経営に乗り出しました。まず、妻のヤサカトメのために、諏訪湖の北の岸辺に春と秋に住まう屋敷を作りました。『春宮』と『秋宮』です。安曇族のヤサカトメが、故郷の安曇野により近い場所に住まえる配慮です。と、同時に、諏訪湖の南北双方を固める意味合いもありました。
また、夏のお宿移り(遷座祭)には、故郷の安曇野に伝わる『お舟』を行列に加える配慮もしました。タケミナカタとヤサカトメの間には21人の子供が産まれ、それぞれに、信濃各地の領主として、散会して行きました。長男のカムヒコワケは水内の荘(現在の善光寺)に、四男のオキハギは佐久平にと言った具合に、それぞれ信濃各地で開拓と守護の役割についたのです。そして、タケミナカタも、前宮から、もともと、次男のイズハヤオの領地であった山本郷(いまの神宮寺)に居館を写し、その住まいを『本宮』と名付けました。もともと、住んでいたイズハヤオには、岡谷の荘を与え、北の守りを任せたのです。
ところで、ヤサカトメが春宮に移られたことに関連して、2つの奇蹟が起こりました。
一つ目の話。
ヤサカトメは、毎日化粧に使っていた、上社の湯を下社に持って行こうと考え、手のひらに湯をすくい、持って行きました。その途中、指の間から点々とこぼれ落ちた場所から温泉が沸きだし、上諏訪温泉や大小の温泉が出来たのです。最後に湯を浸した化粧綿を置いたところが下諏訪温泉の綿の湯になりました。
もう一つの奇蹟ですが、タケミナカタが佐久に巡検に出掛けた折に、饗応した土地の女性(にょしょう)の中に、それはそれはみめ麗しいヒメが一人おりました。タケミナカタが名を聞くと女性(にょしょう)は、『私は、アラフネと申します』と答えました。タケミナカタは、アラフネに恋をし、一夜の契りを結びました。そして、産まれた子供が佐久平の領主となったオキハギなのでした。下社に逢いに来るのを禁じてしまいました。
しかし、そこは、男と女。もともと熱愛していたふたりなので、本当は逢いたくてたまりません。そこで、真冬のある夜、本宮で饗応の宴を開いたタケミナカタは、参列者が酔いつぶれて眠るのを待って、結氷した諏訪湖を渡り、ヤサカトメのもとへ通ったのです。その足跡に氷の裂け目が出来ました。これが『御渡』(みわたり)です。タケミナカタ自信も宴で酩酊していたため、千鳥足で、氷の裂け目も蛇行したそうです。御渡には、上社から下社に渡る二本の筋の他に、佐久方向に渡る『佐久の御渡』がありますが、これは 、タケミナカタが佐久のオキハギとアラフネに逢いに行った足跡といわれます。こうして、タケミナカタは、信濃のあちこちに自らの血縁者を置いてその経営を固めて行ったのです。
『そして、神に』
信濃一円を支配下に置いて安定した経営を確立したタケミナカタは、糸魚川にいた老いた母、ヌナカワヒメを諏訪に呼ぶことにしました。糸魚川から、母を鹿の背に乗せ、大門峠を越えて、茅野の鬼場に来たときのことです。疲れた母を、村の人々が、酒と肴でもてなしてくれました。酒と言っても当時は濁酒(どぶろく)で、肴と言っても鹿の肉ですが、ヌナカワヒメは、諏訪の人々のもてなしに大変感謝し、村の長に、糸魚川から持って来た翡翠の勾玉をお礼に差し上げました。疲れたヌナカワヒメが座った石に跡がつき、その石は御座石と呼ばれ、諏訪の7石の一つとなったそうです。ヌナカワヒメは、タケミナカタと家族に見守られ、諏訪で天寿を全うしました。
さて、諏訪のまつりごとですが、モレヤの支配していた時代からあった奇石巨石の磐座(イワクラ)や湛(たたえ)と呼ばれる日諸木(ヒモロギ)に諏訪の古代からの自然の精霊である『ミシャグジ』を降ろすことにより、土地と民の安寧を祈る方法を、タケミナカタは踏襲しました。まつりごとの祈りはモレヤが踏襲し、これを行ったのです。そして、自らは『現人神』として人々の調和を守る役割を担いました。
狩りの大好きなタケミナカタは、しばし八ヶ岳山麓に狩に出掛け、鹿や猪を狩っては持ち帰り、民びとと饗応をしたそうです。これが、現在残る御頭祭や御射山祭の元になったそうです。
幾星霜の時が過ぎ、タケミナカタも天寿を全うし、天に召される時が来ました。タケミナカタは、臨終の床で、遺言を残しました。『私が亡くなったら、その亡骸は前宮の御霊位岩の袂にうめてくれ。そして、墓の上には天に昇るために藤の蔓をいけてくれ。妻のヤサカトメも、私の隣に』
『私の子供のうち、次男のイズハヤオの男の子(おのこ)を代々現人神(あらひとかみ)として、諏訪のまつりごとの象徴とすること。そして、それを補佐するモレヤの子孫の男の子(おのこ)にミシャグジの秘技を継承させて、以後神長官として、大祝を補佐させる事。』
『他にも、四人の神官を任命し、大祝と神長官を補佐させる事。』と、言い残しました。
そして、タケミナカタは天寿を全うし、天上から、諏訪と諏訪の民を見守る『神』となったのです。その亡骸は、約束通り、前宮の御霊位石の隣に葬られ、やがて、タケミナカタのあとを逐うように亡くなったヤサカトメと共に祭られたのです。神陵といわれるふたりの墓には二本の藤が植えられ太い方はタケミナカタ細い方はヤサカトメが眠っているといわれます。タケミナカタの子孫であるイズハヤオの子供は、大祝(おおほうり)となり、代々『神氏(みわし)』を名乗り、諏訪の地に君臨する現人神(あらひとかみ)となりました。そして、補佐するモレヤは神長官として、ミシャグジの秘技で祭を行い、その秘技を代々男の子(おのこ)に伝えて行ったのです。
神の時代から、人々の時代への変遷が、ここに始まったのです。
『モレヤの祭』
タケミナカタから、諏訪のまつりごとを任されたモレヤは、自らが信奉していた『ミシャグジ』をまつりごとの芯に据え、諏訪の支配を確立していった。ミシャグジとは、七石と呼ばれる奇岩巨石、七木と呼ばれる日諸木(ヒモロギ)に、自然の精霊を降ろし、土地の安寧を祈る形態で、タケミナカタが諏訪に来る遥か前から行われていた祈りの形であった。
また、狩猟民族であった諏訪の民に、御射山祭や正月の蛙狩などの祭りを伝えたのもモレヤであった。モレヤは、七石のうち、前宮の御霊位石、杖突道の中腹にある小袋石、本宮にある硯石の三角点の中央に、屋敷とミシャグジの総社を構えいずれの場所にも直ぐ飛んで行ける地に住んだのである。ミシャグジは、諏訪に限らず、黒曜石の文化圏に乗って北関東や南東北にも、社が点在し、その勢力が、そのまま諏訪信仰の勢力圏ともなったと言う。そのミシャグジの秘技は、代々、モレヤの長男に屋敷にある祈祷殿で、長男に口伝(くちうつし)で伝えられてきた。モレヤの子孫は『守矢』の姓を名乗ることとなった。そして、諏訪信仰の根幹である諏訪神社(いまの大社)の筆頭神官として、現人神の神氏(みわし=タケミナカタの子孫)を補佐してきたのである。
また、守矢氏は、大和政権にもコネクションがあった。守矢氏のように、朝廷に置いて、神祇官を代々勤めてきた物部(もののべ)氏である。物部氏は、日本の古い神々を大事にする豪族で、当然、ミシャグジを奉じる守矢氏とも繋がりがあった。物部氏が全盛期だった頃の当主は守矢との繋がりからか、自ら『物部守屋(もりや)』を名乗ったのである。
しかし、朝廷の国教を仏教にしよぅと言う蘇我氏や聖徳太子と対立。守屋は、敗退して虐殺されてしまった。その子倉足(くらたり)は、朝廷のちからが及ばない諏訪に落ち延び、守矢神長官はこれを受け入れ、自らに次ぐ祢宜太夫(ねぎだゆう)の位を与えた。そして、朝廷の神祇官だった物部氏が蓄えていた様々な国の神祇を教えてもらい、それを洗練して、諏訪信仰の形を整えて行ったのである。
諏訪上社の神体山の守屋山の名前と、山頂の石祠の祭神が物部守屋なのは、この辺りに理由があるからだとおもわれる。今でも、杖突峠の向こう、藤沢と言う集落には、物部氏の子孫だと言う一族の守屋姓の人々が物部氏を奉った神社をまもっている。同時に、守矢神長官は、まつりごとを補佐する神官を置いたところが神長官は、守矢氏祢宜太夫は、物部氏権祝は、矢嶋氏神疑祝は、伊藤氏副祝は、守屋氏(守矢の分家)以後、明治維新待でこの制度は続いた。
タケミナカタを受け入れ、物部氏を受け入れつつ、ミシャグジの秘技を祭の中に残して行ったモレヤ=守矢は、実は狡猾な、諏訪一番の勝者と考えるのは、穿った見方であろうか?
『神(みわ)氏』と『金刺(かなさし)氏』
大和王朝(=朝廷)から遠く離れた信濃の地で、独立した祭政を行っていた神氏と守矢氏の一族ですが、朝廷の力が信濃に及ぶ時が来ました。朝廷の舎人(とねり)、金刺氏が、大王(=大君、天皇)の命を受け、信濃調略に取りかかったのです。越後から、信濃に入った金刺氏は、まず、タケミナカタ神の長男カムヒコワケを奉じる民の抵抗を受けました。その抵抗は、凄まじく、金刺氏は、初戦から大苦戦を強いられたのです。直接の武力では敵わないと悟った金刺氏は、作戦を転換し、懐柔策に方針を転換したのです。すなわち、朝廷の権威を傘に着るのではなく、自らもカムヒコワケと、タケミナカタを信奉することにより、民の心を鎮め、支配を確立していったのです。その証として、現在は善光寺になっている場所に、カムヒコワケの社水内大社を建て囲むようにタケミナカタを奉る武井、湯福、妻科の鎮守を置いたのです。同様のへ方法で、塩田も調略した金刺は、さらに、もともとは、同じ朝廷の舎人であった安曇族とも、友好関係を定立。満を持して諏訪の平に進みました。
そして、安曇族の女神であるヤサカトメを奉祭し、その館に下社を作り、諏訪の湖北の支配を確立したのです。しかし、神(みわ)氏と守矢氏が支配する、湖南、八ヶ岳山麓には、手を出さず、神氏に使者を送り、和議を結び、自らは下社の祭主となったのです。神氏は、湖北の支配を金刺氏に譲ったものの、東、南の信濃の支配権は変わらず 握り、前宮に館を構え、本宮の社壇を整備し、金刺氏を仲介人として、平和裏に朝廷との関係を構築していったのです。後に、相争う金刺氏と神氏ですが、このときはまだ、友好関係を保っていたのです。
『ミソギ祝有員』
天皇家と同じように、万世一系、男子が即位し、神の血を守って来た、上社の神(みわ)氏ですが、奈良時代の始め頃、流行りやまいで相次いで男子が死去、姫のみが残る事態が生じました。男子継承がきまりだった諏訪の神(みわ)氏にとって、これは由々しき事態です。そこで、神長官守矢氏は、同じく男子継承で王統を継いでいる朝廷から、養子をとることを考えました。そこで、早速下社祭主の金刺(かなさし)氏 の斡旋を得て、桓武帝の第五皇子である有員(ありかず)を諏訪に迎えたのです。
諏訪に入った有員は、神氏の血を引く姫と婚姻をし、男子をつくり、神氏の命脈を繋ぎました。そして、その男子が七歳になり、ミシャグジ下ろしを行うまで、自らが神の代理人となったのです。有員は、畏れ大いということで、前宮には入らず、諏訪の平らをはさんで反対のミソギ平に居館を設け、そこにあったミシャグジの社で、神長官から、神下ろしを受け、諏訪の現人神(あらひとかみ)となりました。
そして、『これより、諏訪の神の末裔を大祝(おおほうり)と名乗ることにする。』と宣言し、『代々の苗字を諏方(すわ)と名乗る』と定めました。
こうして、神(みわ)氏は、大祝諏訪方氏となり、タケミナカタから続く血脈と大和朝廷の神世から続く血脈とが融合し、新しい『諏方(すわ)』家が誕生したのです。有員の皇子からは、再び前宮を居館とし、七歳でミシャグジ下ろしを受け、大祝に即位するようになりました。有員は、御射山祭りの御狩の際に、誤って落命。上社御射山にその墓があります。
さて、下社ですが、上社に大祝の制度が整うと、競うようにして、金刺氏が下社『大祝』を名乗るようになりました。その事が、上社、下社の間の争いの火種となるのですが、それは、また後の話し。