天白七五三社と蟹河原長者の話


天白七五三社と蟹河原長者の話

転載元 https://suwaarea-examine.com/ganigawara_chief.html


天白七五三(しめ)社・天白〆社

天白七五三社(〆社)は諏訪大社上社末社の達屋酢蔵神社の近くにある。
諏訪明神こと建御名方命に服従した洩矢神と敵対した矢塚雄命(やつかおのみこと)の旧地と伝わる場所に天白七五三社(てんぱくしめ社)がある。
茅野市横内、往古は「横落村」と言われ、寛永年の大洪水で家屋が流れ「洪水、横から来て落つ」の意から横落と書き後現名となった、フォッサマグナの断層の崖下にある湧水豊富な地にあたる。
伝承によると、八ヶ岳の実権を握り、蟹河原(がにがわら)に集落を構えていた長者、矢塚雄命(やつかおのみこと)がいた。
漏矢神(もりやのみこと)が建御名方神(たけみなかたのみこと)に仕える者となったと聞き、両神に争いを仕掛けるがあっさり敗れてしまう。
死ぬ間際に建御名方神(たけみなかたのみこと)に謝罪し、自分の大切な娘を差し上げたという話である。

蟹河原長者の五つの自慢
なに一つ不足のない、蟹河原(がにがわら)長者であった。
目に入れても痛くない末娘は、人並すぐれて容姿よく、心やさしい性格であることが自慢の一つ。
総領は八ヶ岳山麓で野馬を飼いならし、山奥深くまで狩りに出かけ、大きな獲物を仕遂げる業を得意とし、誰ほめない者のないのも自慢の一つ。
山麓に実る葡萄葛(えびかずら)を採り集めてつくる酒が、蟹河原の湧き水とよく合って醸されると、香りが高くて味がよく、なかなかのうま酒であることも自慢の一つ。
祖先が植えた欅が土地に適していたらしく、揃って大樹となり、どんなに遠いところからもこれが目印となって、長者の屋形は一目でわかる事も自慢の一つ。
美濃の国から種を持って来て植えた栗の木が、年毎に育ち繁茂し、大粒の実の収穫の多いのも自慢の一つ。
蟹河原(がにがわら)長者の五つの自慢といわれた。


上蟹河原遺跡
上蟹河原遺跡は、国鉄中央線茅野駅西三〇〇メートル地点で大塚古墳などが立地する上川の沖積台地の西端崖下にある。
崖の高さは十メートルで、標高は七六九メートルです。
春は崖の日溜りに菜の花が咲き、付近には湧き水による清流が流れており、遺跡前面には沖積地が広がり水稲耕作には最適な地であった。
遺跡附近には弥生時代から平安時代にわたる土器等が散布していた。
昭和六年畑地内より土器一点が掘り出されたことを契機に、地元考古学者矢島数由氏等が二十五㎡ほどを発掘調査し、竪穴住居跡と思われる遺構から土師器三十二点が発掘された。
発掘された土師器は古墳時代初頭の代表的な資料で、東海地方との関わりが指摘されるなど、当地域の古墳時代の土器研究を進める上に欠くことのできないものである。
近くには、達屋酢蔵神社、御社宮司社などの古社がある。
この一帯には弥生時代から平安時代に至る遺跡が存在するが、今は人家と国道二十号線の敷地下になっている。

茅野ТМО設置の説明板より


洩矢神と建御名方神の争い

不足を知らないこの平和な長者の上に、建御名方神の洲羽入りの知らせは、大きな刺激であり驚きであった。
先頃、これを告げて来た洩矢神は、急いで小野から橋原までを固め備えるため、飼い馴らした幾頭かの長者の馬を連れて行った。
それから、さっぱり何の知らせもないが、物見の者の知らせには、洩矢神はすっかり建御名方神に降服し、こしき原に仮の御屋形を奉り「大神、大神」と崇め、その一行を厚くもてなしているとのことであった。
「意気地なしのよどれ奴が、守宅も守宅ではないか、不甲斐ない奴等だ」と長者は憤りに堪えなかった。
一方、洩矢神は忙しかった。
洲羽入りの大神建御名方神一行の仮の御屋形の諸事万端、不自由のないようにと、自ら指図をしていたが、ひとまず落ちついたので、大神建御名方神にひとたび武居の里の屋形へ一度帰る旨を告げた。
大神建御名方神は、先ごろ洩矢神の説明申し上げた一望の下に、眺められる洲羽の国の土地長達の氣質などを重ねてこまごま洩矢神に聞きただされ、「とにかく一旦は、洲羽の土地の土地長達服従の労は、洩矢神がとするように」と、仰せられた。
さらに、大神建御名方神は繰り返して、「土地長といくさを交えず降服さすべく、取り扱うように」と、お任せになられたのであった。
洩矢神は、「大神のお考えに添いましょう」と、返事を申し上げて帰途についた。
洩矢神は十分自身があったが、ただ一人蟹河原長者のことだけが心配であった。
親譲りの大長者であり、世間の苦労はしつくした豪の者、第一負けることは大嫌い、しかも近ごろでは、野馬の飼い馴らしに成功し、遠い他国の市場まで物交(あきない)に出かけるのに馬に乗って旅をし、塩の持ちこみや鉄の持ちこみも潤沢で、洩矢神も、一歩も二歩も譲らねばならない相手であった。
洩矢神は、蟹河原長者との交渉を考えると自然と足が重くなったが、はるか眼下に見える蟹河原長者の欅の森を眺め、これからのことに思いをめぐらしながら屋形へ向かって歩を進めた。
まずは、大神建御名方神の安住なされる土地を考えねばならない。
山脈の中腹から水眼の大泉を引きおろしてある山懐を“神原(ごうばら)”としてお住み頂けばまず安心であるし、普請は始めればたちまち出来上がろう、などと思い巡らしながら湖南大熊に来た時、迎えの守宅神と出逢った。
守宅神の知らせによると、今朝、蟹河原長者の使いの者が十五、六人寄せて来て大音声での口上に「蟹河原長者は、他国者に降参するような腰抜けではない。何時、如何なる時でも相手をする。蟹河原長者は洩矢のようなよどれじゃないぞっ」と、散々罵倒して帰って行ったとのことでる。
心配そうに告げる守宅神に「そうか」と、頷いたまま、洩矢神は何も言いわなかった。
それからは、ときどき蟹河原長者の使いたちが近くの大川端に来て大声を挙げ、「洩矢の腰抜け、いつでもかかって来い。」と、侮り、騒ぎ、悪口を並べました。
洩矢神は説得にも行けず、馬耳東風と受け流していたが、大神がお越しになっている時は、ハラハラ思う様子が見て取れた。

蟹河原長者の油断

神原の郭(くね)は築かれ、大神の家臣の度量知(さししり)の神、彦狭知命(ひこさしりのみこと)の測量の下に、大神建御名方神をお迎えする屋形は、洩矢神の指図で各地のむら長はみな喜んで奉仕し、黒木の御殿も、逐次出来上がった。
この頃、蟹河原長者の家来達は、ときには矢さえ打ち込んで嫌がらせをして来た。
こうした様子では、最早ひと戦は避けられない事であり、他の土地長への誡めにもならない状態であった。
大神建御名方神も漏矢神も深く思うところがあったのである。
しかし、すっかり侮った蟹河原長者は、高神殿(たかこうどの)の御普請の杮(こけら)落としの朝、赤い矢を打ちこませた。
おり悪く、見廻っていた彦狭知命(ひこさしりのみこと)が矢を受けて傷ついてしまった。
それをお手にされた大神建御名方神は、さすがに厳粛なお顔をなされて、「笑止千万じゃ、なんのための挑戦ぞ、図にのりおるようじゃ。さぁ、洩矢、これから一気に叩きつぶそうぞ」
この御言葉は、皆が待ちに待ったご命令であったので、揃って喊声(かんせい)を挙げた。
たちまち勢揃いをして、一気に川を渡り、蟹河原に押し寄せた。
大神建御名方神や洩矢神をあなどり、自分は油断だらけであった蟹河原長者は、すっかり攻め立てられ、流れ矢に当たって瀕死の重傷を負ってしまった。
長者の一番予想違いであったことは、大神にこんなに立派な馬が揃っているとは思わなかったことであった。
また、大神の軍勢の威風堂々として戦上手に蹴落とされたのである。
遠くから見た大神の威丈夫ぶりにもすっかり打たれてしまったのであった。
蟹河原長者は駆けつけた洩矢の神に、「洩矢神、まことにすまなかった。自分は最早駄目であるが、大神へのお詫びに娘をさし上げる。わたしの一番大切なものであって、一番行く末の心配な娘であるからよろしくたのむ」と言いのこして死んでいった。
洩矢の神は娘を案内に立て、大神一行を酢蔵に御案内申し上げ、ここにかちどきを挙げ、直ちに酒を荷なって高神殿へ凱旋し、高殿の杮(こけら)落としの祝の宴に、従臣や、むら長達と親しく夜を更かされたのであった。
そののち彦狭知命(ひこさしりのみこと)は、蟹河原長者の地を大神建御名方神からいただき、長者の姫と此処に永住したのである。
楯屋酢蔵(たつやすくら)は度量知(さししり)の神を祀る、この地を栗林郷と云う。
古来より横落村(横内)は諏訪上社の御柱を伐り出す深山(八ケ岳中腹地にて「おこやま」とも言う)の神領地つづきに、産土神「建屋酢蔵神社(神体石棒)」の御柱を伐り出す特権地区七丁歩を持ち、小宮の御柱では最も太い用材であることを誇りに伝えている。
現在も社殿は一つであるが、二つの扉を持っている。

諸説あり
出典 諏訪ものがたり 今井野菊 著
出典 大天白神 今井野菊 著
出典 諏訪大明神 山田肇 著



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