洩矢神と建御名方命(今井野菊『諏訪ものがたり』より)
転載元 https://suwa-shiryo.amebaownd.com/posts/13082696
むかしむかしの遠いむかしから 洲羽 (諏訪)の人々は、冬の間、みんな 穴倉 で暮らしていた。
この穴倉のことを、 おむろ ともいった。現在でも、この風習はすこし残っている。
それは、地面を四五尺位の深さに掘り、喬木を渡し、直接、土に垂木をささえて 茅葺 にし、その中で、冬籠りといって、冬季間を生活するのである。
土床に囲炉裏をつくり、枯草をしいて茅蓆を上に並べるのであるが、家長の座の茅の下には、萩の枝などの、やわらかい小枝を敷き、一番上には、毛皮を敷いていた。
雪の多い年であった。今日も雪降りである。男達は、女手まで狩り出して、洩矢神を先頭に、猪狩りに出かけた。
みんなの出かけたあとの、穴倉の中の炉端には、留守居役の曽祖父が、薪を炉にくべながら、 曽孫 達に、昔がたりを続けていた。
曽祖父の坐った熊皮の敷物の傍らに寄り添った孫達は、科の木の皮で織った着物から、はみ出す小さい脛をそろえて、髭ぶかい 曽祖父 の顔を見上げ、
「それから?」
「そうして、どうなったの?」
と、話の先を聞こうと催促するのであった。
「俺達の小さい頃にはナ、洲羽でも、あっちの 酋長 、こっちの親方と、始終、 戦争 ばかりしていたものだった。
― 長峯の 長 と上川をはさんだ日向山の「一本 椹 」の長とは、いつも仲が悪かったし、また 土武 の 酋長 は、とても強くて、桑原と鷺の里のおやこの 酋長 を相手に、毎年のように 戦争 をしていたもんだった。
― ところが、洩矢神のおじいさまの御祖先に、強くて偉い人が出てから、代々、立派な人が出たので、山うしろの 外県 からはじまって、 土武 も、桑原も、 大曲 の 酋長 たちも、みんな家来になってしまい、安曇の
主とも今では、おやこになっているし、湖北の大伴主ともおやこだし、おかげで戦争がなくなった。湖北の大伴主は、
あきない(物交)に行ったり、桔梗ヶ原から深志へも行った。冬は湖水の魚を、深志から佐補 ―そして上野方面まで持って行って、砥石
と交換んで来るちゅうし、もっともっと遠くの、美濃の国までも、持って行くちゅう」
曽祖父の手は、こういう、昔話や世間話をしている間も、いつときの休みなく、科の木の皮をはいでいた。囲炉裏には、白樺の薪が赤々と燃えつづけ、外の雪は、益々降りつもっていった。
「今では、いくさがなくて、わんだァ達は、しあわせだゾ」
と、結びながら、曽祖父は囲炉裏から、栗の実の焼けたのを、いくつか、掘り出して孫達にわけあたえるのだった。
「おつさま、あの、岳のつめた山の長上ナ、ありゃア何んだェ?」
「うん、ありゃア大事な長上でナ、あの、つめた山(冷山)があるおかげで、浅間の火の神が洲羽へ来られないのだ。なんと言っても、大昔からの偉い酋長だ。立科の主神の御子様で、和田とつめた山の黒曜石の守り神の家柄だし、この長は、昔からいくさをしなかった。この長に手向うと、浅間の火の神が荒れて、山の獲物がなくなるからだ。だから、この神に従っているのだが、他の酋長同志は、昔は、始終、いくさをしていたものだった。 ―だがなァ、甲斐から東山づたいに、岳の麓に、移って来た氏族は、甕や横瓮や蓋杯なんかを、とても上手につくる人達で、此処の酋長は、山狩りをする時は、女も男も子供も、みんな手伝わせて獲ったえものを、なんでも、平等に山分けにしてくれるちゅう」
話好きの曽祖父の話は、まだつづいたが、外の雪は、さいわい、やんだ様子である。
「オオ!来たぞ!!」
中背せの男の子が、叫んで外へ飛び出すと、
「ワァーッ!」
と、小さい女の子も、走り出していった。
キョトンとした曽祖父は、「おお、みんな帰ったナ」と、孫達の出ていったあとを見送って、両手を一ぱいにあげて、白髭の口を大きくあけてあくびした。
囲炉裏の土釜が、沸々と、煮えたぎっている。
こうして、洲羽の山々は、雪に埋もれて、平和そのものであったが、洲羽の国津神洩矢神は、このところ、幾日も心穏やかでなかった。
今日も守矢山の狩から藤沢邑の別邸へまわって歸って来て、安曇連の穂高命からの使者を返したところであるが、洩矢神は今までに、穂高命から同じ意味の使者を、既に三回も受けているのだった。
其の内容は、
「豊葦原第一の大国主命は、出雲から北陸を統一し、越の国の豪族の娘、沼河比売を娶って、生れた美穂須美は又の名を建御名方命と稱され、膂力武勇にすぐれ、よく、父大国主命をお援けすると共に、進取の気象に富んで居られる事は、海内にきこえているところである。
又、建御名方命は、伊勢の国にも住まわれ、伊勢の人々は、伊勢津彦命と御名を奉って尊敬して居られる。建御名方命の后は、伊勢の国多気郡、麻績の豪族天の八坂彦命の娘・八坂刀売命であるが、天の八坂彦命は、後世、上御糸村、下御糸村の機殿村など、織物開祖の豪族である。
―この、建御名方命御夫婦の神が、越の国から、科野(信濃)の国に下るに、行くところ敵なく、草木まで靡かざるなく、今は安曇連の穂高命をも心服させて、安曇に留まり、音にきく、山紫湖澄む洲羽の国に安住したいと仰せられているが、寔に、人格高い御方であるから、このさい、洲羽の国を奉って、従うように ―」、というのである。
何故、出雲の国の大氏族の御曹司が、科野まで押し寄せて来るのか詳かでなかったが、洩矢神としては、寔に腹立たしい事であった。然も縁者である安曇連から使者の伝える所では、心服の限りを盡して仕えているという事も、腹が立つのである。
そこで洩矢神は、申入れをはねつけて使者をかえし、
「いよいよこの洲羽へ攻めて来る」
と、覚悟をきめ、直ちに洲羽湖の湖尻にあたる天竜川口の橋原に砦を築き、部下を集め、防戦の用意を怠らなかった。
然し、此の冬は用意深くしていたが、何事もなく過ぎ、やがて洲羽特有の雪解けのあとの、のどかな春がやって来て、湖の岸に鹿が下って来たり、ぼつぼつ時鳥も啼きはじめ、初夏となった。洩矢神は久し振りに武居の里の屋形に帰った。
其の日の夕刻、あわただしく馳けつけた注進は、小野峠を越えた出雲族の軍勢が安曇連を先頭に暁方小野の砦を席巻して攻め落し、強豪の味方の精兵も大方討死して総崩れになり、生き残りの負傷兵達が、今、橋原の砦に引き上げて來たと、知らせて来たのであった。
わが洩矢神祖先以来、土着のこの洲羽の領土を外来の侵入者に奪われてなるものか! ―と怒りにふるいたった洩矢神が橋原の砦に馳せつけた時は、無惨にも味方は大方、傷ついていて、我が子少年守宅神も数多の手傷を負い、無念そうに歯を食いしばっており、父洩矢神の視線から目を落す始末であった。
「敵は!?」とみれば、何事にも動じたことのない荒酋長洩矢神も、思わず、「ウーム!!」と、唇から驚きの声をあげた。
何という紅顔の美丈夫ゾ、髪は美豆良に玉を巻き、上着も褌も白色、頸の勾玉管玉の青や紫が目を射る。それにもまして肩に懸けた刀子の皮鞘の金の飾りが、閃々と洩矢神を射る。澄んだまなことその姿の雄々しさ!!
天竜川に生い這う巨樹の間に、美しくも咲き乱れる山吹の黄を背に、悠揚迫らず立っている青年の姿を、洩矢神がみたとき、最早精神的に洩矢神は白暫の青年神に対し敗北を感じた。
すると進み出た安曇連が、出雲の建御名方命である事を告げ、自分との勝負をいどんだ。怒りに震える洩矢神は鉄の鑰という武器を振りあげてかまえたが、静かに安曇神を圧えて進み出た青年神は、梓の弓も太刀も従臣に持たせたままで、その手には今を盛りの藤の花房の一枝を携えていただけであった。
この勝負は、たちまちにして鉄鑰が負けて藤の花房の枝が勝ったのである。大神の命の威に服した洩矢神は諏訪の国造りをして、永く祭政にお仕え申す事を誓い、大神は、
〽鹿児弓の真弓を持ちて宮満茂里矢竹心につかうまつれよ
と、お読みになって、手にした藤の枝を投げ捨てられたところ、後になってその藤が根づいて、繁ったので、此処を戦場のしるしとして万代に伝えるため「藤島の森」と名付けたと、今も伝えられている。
勝負に負けた洩矢神ではあったが、勝って誇らぬ建御名方命の英姿と人格に心から傾倒して、百年の知己を迎えると同じような、ほのぼのとした心あたたかい喜びにひたりながら、洩矢神は、橋原の砦をあとに、建御名方命の軍勢の先頭に立って、有賀の赤石の砦に御案内申し上げるのであった。
湖の岸辺の泉の湧く赤石に立てば、美しい諏訪の山々、そして湖面に背を揃えて泳ぐさかな、果しなく咲きつづく岨の山吹の花。
建御名方命は御満足そうであった。
赤石の泉に身を清められた建御名方命は白麻の上着に同じ褌を足結の紐できりりと括り、純白に萠黄の糸を入れて編んだ帶を前で丸結びに締め、頸に勾玉、管玉、手頸に丸玉、お手には頭椎頭椎の太刀柄、頭の孔に萠黄の懸緒、鐔は倒卵形のすかし彫、鞘は長く木心に金銅の板を被せ、数多あまたの打ち出しを見せた三尺八寸の直刀。
老いも若きも、その誰もが息をのむ美丈夫振りであった。
加えて大神の命の率ひく馬はとき高く、立髪長く、凛々しい駒であって、鹿に交っている野馬とは比較にならない見事さであった。
安曇神は深い髪を撫でながら、神山八ヶ岳を指して后達の一行に説明して居られた。
若い后、八坂刀売命は、丈なす黒髪を中央で分けられて、背後に垂らし、山吹の花を巻き、自らなる玉肌の可憐さ。白筒袖の絹の上着に緋色の裳を長く纏いつけ、紐を左腰で片かぎに括り、その裳の上に倭文布の帶を結びたらし、両肩には絹の頒布を掛け、頸には頸玉、耳には耳飾り、手頸には手玉を飾り、
午下りの陽に映えて、湖の精のような美しさ、霊山の女神とも思われる神々しさであった。
一同が赤石の清水に手足を清められて、一休みされているところへ、洩矢神は自ら案内に立ち、山吹の花の咲き乱れる岨を登り、甑原に御案内申し上げ、ここは諏訪の平、八ヶ岳の山麓から湖辺一帶の洲羽を一望に眺め得る第一の景勝地であること、そして洲羽各地の氏族長の住居地が手に取るように見えるのを洩矢神はこまごまと建御名方命に御説明申し上げ、各々の氏族の実状をもお耳に入れるのであった。
建御名方命は、すっかりこの洲羽一望の甑原をお気に入りになられ、とにかく一生、洲羽の地に安住しようと、お心深くおおもいになられたのであった。
かくて、宴の蓆は設けられ、けだものの皮を吊し、茅蓆の上に鹿皮のしとねを敷く広座の内へ、命、后、安曇連、従臣の順に招じ入れた。前方の楉机の上には結燈台の灯が点ぜられ、斉杯が据えられ四方のくぼみ石にはさかんにしでが燃やされている。
ここに、改めて洩矢神は建御名方命の下された、
〽鹿児弓の真弓を持ちて宮まもり矢竹心につかうまつれよ
の御歌に対し、ありがたく臣下として誓いの詞を奉ったのである。
洩矢神のうしろには、新たに紹介された守宅神が謹んで坐ったが、少年らしい興奮に頬を染めて、如何にも、洩矢氏族の血を受けつぐ男の子にふさわしく凛々しい容貌に、大神も后のかみも、また並居る従者達も、こよなく、たのもしく思い、微笑しながら眺めていた。
直ちに御前には茅編みの四角の簀に櫆の柭手を載せて、上に肴や焼肉が山と盛られて運ばれ、平瓶から梶の葉の盃に、芳醇な黒酒が注がれ、洲羽の天地創はじまって以来、始めての、平和なめでたい宴うたげが豪華に開かれたのである。
(注)洩矢神―守宅神―千鹿頭神―児玉彦神―八櫛神―等洩矢神系神長守矢真幸氏にて七十七代と伝う。
赤石―赤石明神。
橋原―洩矢大明神。