グアテマラのペテン低地にあった古典期マヤの大都市である[1]。マヤ文明の政治、経済中心都市として紀元4世紀から9世紀ごろにかけて繁栄を極めた
歴史
ティカルのもともとの名は、「ムトゥル」[2][3]または「(ヤシュ)ムタル(Yax Mutal、Yax Mutul)」[4]と言われている、その正確な意味はまだ解明されていない[5]。
一方、「ティカル」はユカテコ語由来で、「水たまりにて」を意味しているとされている[5]。1840年代で観光客や猟師達が遺跡にあった溜池に因んで作った呼び名だという[6]。
ティカルは熱帯雨林地帯で栄えたマヤ最大の神殿都市である。最盛期には6万人もの人々が暮していた[7]。ティカルの地はカリブ海とウスマシンタ川を結ぶ交通の要地であり、翡翠やケツァールの羽根、黒曜石などの貿易が行われていた[8]。ティカルに集落ができたのは紀元前800年ごろにさかのぼる。1世紀までに町は現在みる形になり、ピラミッドが作られた[8]。後世の碑文によれば、ティカル王朝の最初の王(アハウ)はヤシュ・エーブ・ショークといい、1世紀後半のころの人物だったらしい[9]。石碑29はティカルでもっとも古い日付(292年)を記している[9]。
378年、テオティワカンの将軍シヤフ・カック(siyaj kak/「火の誕生」)によって征服され、ティカルのモニュメントは破壊された[10]。テオティワカンの王族ともいわれるヤシュ・ヌーン・アイン(「最初のカイマンワニ」)が即位し、新王朝が始まった[11]。この時代にはテオティワカンの強い影響を受けた遺物が残っているが、約30年後にシヤフ・チャン・カウィール2世が即位するとテオティワカンの影響は弱まった[12]。
21代目の王ワク・チャン・カウィールはおそらく北のカラクムルに攻められて562年に殺され[13]、それから130年にわたって石碑による記録がまったく存在しない暗黒時代にはいる。しかし、土器は作られ続けたし、人口が減ったわけでもなく、都市そのものが衰えたわけではなかった[14]。25代目のヌーン・ウホル・チャークはカラクムルに攻められてパレンケに逃れた。その後ティカルに戻って南のドス・ピラスを攻めたが、679年に敗北した[15]。
682年に26代目のハサウ・チャン・カウィールが即位するとティカルの王朝は再び勢力を取り戻し、長年の宿敵であったカラクムルを695年に破った[16]。次のイキン・チャン・カウィールのときにティカルは最盛期を迎え、王は外征を繰り返した。古典期後期最大の建築物である4号神殿(高さ65m)や6号神殿が建設されたのもこのときである[17]。29代目のヤシュ・ヌーン・アイーン2世は2つのツイン・ピラミッド(Q, R)を建てた[18]。
9世紀にはいると、中央マヤの都市は衰退し、ティカルもその例外ではなかった。ティカルの最後の石碑は869年の日付を示している。ティカルは50年から100年かけてゆっくりと崩壊していった[19]。衰退の原因は明らかではないが、人口の増加にともなって農業収穫を増やす必要があり、その結果土地が痩せ、気候変化や病害の影響を受けやすくなったなどの原因が考えられている[20]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB