ポポル・ヴフについて
『ポポル・ヴフ』(Popol Vuh)または『ポポル・ウフ』(Popol Wuj)[注釈 1]とは、現在のグアテマラシティ北西にあるグアテマラ高地(英語版) に住むキチェ族の人々に伝わる神話および歴史を綴った文書である。
『ポポル・ヴフ』はグアテマラのスペイン征服以前にキチェ族の人々によって書かれた創作説話である[1]。そこにはマヤの創世神話、英雄の双子フンアフプーとイシュバランケーの偉業[注釈 2]、そしてキチェ族の年代記が含まれている。
ポポル・ヴフという名称は「会議の書」[2]や「共同体の書」「評議会の書」などと訳されるが、より文字通りには「民衆の書(Book of the People)」である[3]。文字に書き留められたのは1550年頃で、それ以前はもともと口頭伝承で受け継がれてきたものである[4][5]。現存するポポル・ヴフは、18世紀ドミニコ会 のフランシスコ・ヒメーネス(英語版)が原文をスペイン語で写し取ったものとされている[4][注釈 3]。本来はマヤ文字で記されたと推定されている[6]が、マヤ文字で書かれたものは現存しない。
『チラム・バラムの書』や他の類似テキストもそうだが、スペインのコンキスタドールが焚書を行ったためにメソアメリカの神話を扱った初期の叙述が希少であるとの観点から、ポポル・ヴフは特に重要である[7]。
ヒメーネス神父の写本
1701年、ヒメーネス神父はサント・トマス・チチカステナンゴに着いた。この町はキチェ族の領地であり、従っておそらく神父ヒメーネスが最初に歴史神話を編集した場所とされている[注釈 4][注釈 5]。ヒメーネスは書写と翻訳を並行して手がけ、キチェ語写本(ラテン文字とParra文字で発音を転写)およびスペイン語訳を残した。1714年頃、ヒメーネスは第2章から第21章のスペイン語訳を自著『Historia de la provincia de San Vicente de Chiapa y Guatemala de la orden de predicadores』[8]1巻に組み入れた。ヒメーネスの写本は没後もドミニコ会の所有で保管されていたが、1829年~1830年にわたりフランシスコ・モラサン将軍がグアテマラから聖職者を追放したことで、ドミニコ会の書物の大部分がサンカルロス大学 (グアテマラ)(英語版)に移管された。
1852年から1855年まで、モーリッツ・ワグナーとカール・フォン・シェルツァー(英語版)医師は中央アメリカを旅行し、1854年5月初旬にグアテマラシティに到着した[9]。シェルツァーはサンカルロス大学図書館でヒメーネスの著作を見つけ、その中の「del mayor interes(最も興味深い)」という特定の項目に着目した。グアテマラの歴史家にしてアーキビストのフアン・ガバレーテ (Juan Gavarrete) の助力を得て、シェルツァーは写本の後半からスペイン語の内容を写し取り(または写本を作成し)、ヨーロッパに戻ると公表した[注釈 6]。
1855年にフランスの大修道院長シャルル・エティエンヌ・ブラッスール・ド・ブールブールもまた大学図書館でヒメーネスの著作を見つけた。しかしながら、シェルツァーが写本をコピーしたのに対し、ブラッスールは明白に大学の文献を無断で持ち出し、フランスに持ち帰った[10][注釈 7]。ブラッスールの死後1874年に、ポポル・ヴフを含むメキシコ - グアテマラ地方の蒐集品がアルフォンス・ピナール (en) の手を経てエドワード・E・エア (en) に売却された。エアは1897年に自身の1万7000点の収蔵品をシカゴのニューベリー図書館 (en) に寄贈すると決めたが、この計画実現は1911年まで待つことになる。ヒメーネス神父による『ポポル・ヴフ』の書写翻訳本は、エアからの受贈品に含まれている。
1941年にA・レシーノス(英語版)がニューベリー図書館で(再)発見するまで、ヒメーネス神父の写本は行方不明とされていた。一般に通説では、ヒメーネス写本を直接、編集したのはシェルツァー以降、発見者のレシーノスが初めてとされてきた。しかしマンロー・S・エドモンソン(英語版)とカルロス・ロペスは、最初の(再)発見は1928年のウォルター・レーマン (en) と考えている[14][15]。アレン・クリステンソン、ネストー・キロア、ジョン・ウッドラフ、カルロス・ロペスの説では、いずれもニューベリー図書館蔵書をヒメーネス唯一の「オリジナル」と見なしている。
ヒメーネス神父の原資料
ヒメーネスは教区庁から口述筆記の写本を原資料として借りたと一般的には信じられている。しかしネストー・キロアは「そのような写本は全く見つかっておらず、従ってヒメーネスの作品は学術研究にとって唯一の原資料である」と指摘している[16]。この文書は、ペドロ・デ・アルバラードの1524年の征服後まもなく、サンタ・クルス・デル・キチェまたはその周辺で口頭朗読が行われ、それを聞いた文字に起こした(口述筆記)という通説がある。A・レシーノス[17]とデニス・テドロック (en) [18]は、ポポル・ヴフ巻末にある系譜を植民地時代の記録と比較することにより、その時期を1554年から1558年の間だと示唆している[19]。
しかし、そのテキストが「書かれた」書物と言う点で「ポポル・ヴフの現存に関する結論を出す際に、最初の1ページ目の文章を評論家たちが額面どおりに受け取りすぎているように思える」
とウッドラフは警告する[20]。仮に征服後の初期の書物があるとすれば、ある学説(最初の提示はルドルフ・スカラー)では口述筆記した書記者を『Titulo de Totonicapan』[21]に署名した人物の1人 Diego Reynoso としている[22][23][注釈 8]。別の著者の可能性として、『Titulo de Totonicapan』に「Nim Chokoh Cavec(Kaweqの偉大な執事)」として系図が掲載された、Don Cristobal Velasco もありうるとされる[25][注釈 9]。いずれの場合も、植民地時代の存在はポポル・ヴフの序文に明示されたとおりである[26]。
「これを私たちは今、神の律法のもと、そしてキリスト信仰のもとで書くつもりである。私たちがそれを明るみに出す理由は、海の向こう側からの到来や私たちの暗黒時代の叙述がはっきりと見られ、私たちの生活が明確に見て取れた、いわゆるポポル・ヴフが今やもう見られなくなっているためである」
したがって、内容を「保存」する必要性には前提として内容の消滅が差し迫っているとして、エドモンソン(英語版)は征服前の絵文字的なコデックスを理論化して提示している。ただし、そのようなコデックスの証拠はまだ見つかっていない。しかしながら、少数派はその存在の議論に使われるのと同じ根拠を用いて、ヒメーネス以前のテキストの存在に異議を唱えている。どちらの立場も、根拠はヒメーネスによる2つの声明である。1つ目は『Historia de la provincia』[27]で、ヒメーネスはサント・トマス・チチカステナンゴの副牧師在職中に様々なテキストを見つけたと記しており、それは「彼らのほぼ全員がそれを暗記している」にもかかわらず「長老大臣たちの間でもその痕跡さえ明かさなかった」ような秘密で守られていたものだった[注釈 10]。
ヒメーネス以前のテキストの存在の論拠に使われた2番目の箇所は、『ポポル・ヴフ』へのヒメーネスの補遺であり、次のように記している。先住民の慣行の多くは「彼らが持っている本、それは[キリスト教以前の]時代に起源する全ての月と各日付に対応した記号を付した予言のようなもの、に見ることができる。そのうちの1つを私は所有している」[注釈 11]シェルツァーは脚注にて、ヒメーネスが言及しているのは「単なる秘密のカレンダー」で、自分自身がワーグナーとの旅行中に「グアテマラ高地の様々な先住民の町でこの粗野なカレンダーを以前見つけた」と説明している[注釈 12]。これだとヒメーネスの所有品は『ポポル・ヴフ』ではなく、慎重に守られてきた品であってヒメーネスには容易に入手できる類のものではなかったという点で矛盾が出てしまう。これとは別に、ウッドラフは「ヒメーネスは自分の情報源を決して開示せず、代わりに彼らが望むものを推察するよう読者を促しているため……先住民の間でそうした文字化された改訂版が無かったとしても妥当である。暗黙の折衷案としては、彼または別の宣教師が口頭朗読から最初の書下ろしテキストを作成したのだろう」と推測している[20]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%83%95