ミシュテカ(Mixteca)はメソアメリカの先住民で、メキシコのオアハカ州、ゲレーロ州、プエブラ州を合わせてラ・ミステカとして知られる地方に住む。ミシュテカ諸語はオト・マンゲ語族の中の大きな分派である。
ミシュテカという単語はナワトル語のミシュテカパン(Mixtecapan)、すなわち「雲の人々の地」に由来する。ミシュテカ語が話されていた地域は「ミシュテカ」として知られる。ミシュテカ人は自らのことを彼らの言葉でSa'an Davi、Da'an Daviと呼び、彼らの言葉の地域変種ではTu'un Savi、nuu savi、nuu djau、nuu davi、naa saviと呼んでいた。
概要
先コロンブス期、ミシュテカはメソアメリカの主要な文明の1つだった。ミシュテカの重要な古代の中心地にはティラントンゴの古都に加え、アチウトラ、クイラパン、ワフアパン、ミトラ、トラシアコ、トゥトゥテペック、フストラワカおよびユクニュダウィの遺跡が含まれる。ミシュテカは古代都市モンテ・アルバン (ミシュテカが支配下に置く前のサポテカの都市を起源とする)を大幅に再建した。ミシュテカ工人が石材、木材、および金属で作った製品は当時のメソアメリカ全域を通じて珍重された。
ミシュテカはスペインの「征服者」(コンキスタドール)がやってくる前、アステカ皇帝アウィソトルによって30年ほど征服されていた。彼らはスペイン人とペドロ・デ・アルバラード率いる中央メキシコの同盟軍に鎮圧されるまで、スペイン人の支配に対し、激しく、血みどろの抵抗をした。
歴史上のミシュテカ地域を示す地図。先古典期の考古遺跡は三角、古典期の遺跡は丸い点、そして後古典期の遺跡は四角で印を付けている。
ミシュテカ地域は、歴史的にも現在でも、おおよそオアハカ州の西半分に相当するが、いくつかのミシュテカの集落は隣接するプエブラ州北西部やゲレーロ州まで分布していた。ミシュテカの人々と彼らの母国はしばしば3つの地理的・文化的地域に分けられる: 山岳地帯、その周辺、およびオアハカ渓谷の西に住む「ミシュテカ・アルタ」すなわち高地ミシュテカ;これら高地の北方と西方に住む「ミシュテカ・バハ」すなわち低地ミシュテカ、そして南の平野と太平洋沿岸に住む「ミシュテカ・デ・ラ・コスタ」である。ミシュテカの歴史にとってミシュテカ・アルタは中央高地に位置するミシュテカ国家の首都とともに支配的な政治勢力だった。オアハカ渓谷それ自体はしばしば紛争境界地域となり、ときにはミシュテカに、ときには東の隣人サポテカに支配されていた。
コイシュトラワカ盆地にあるen:Ndaxagua洞窟[1]は、ミシュテカの重要な聖地である。
言語と絵文書
ミシュテカ語とその近接諸語は、20世紀末の段階でおよそ300,000人に達する人々によって話されていると推定されているが、ミシュテカ語話者の大多数は、実務的にスペイン語も話すこともできる。ミシュテカ諸語のいくつかはミシュテカ語以外の名前、とくにクィカテコ語 (Cuicateco)やトリキ語 (Trique)と呼ばれる。
ミシュテカ語はその写本、もしくはその歴史と系図を鹿皮に「(屏風のように)折りたたまれた本」の形式で描いた絵文書[2]によって人類学上よく知られている。ミシュテカの絵文書には、数字は○、文字は判じ絵のような絵文字を使い、絵全体で物語を表現している。絵文書に記載されたもっとも有名な物語は八の鹿王のものである。この名前は彼の生まれた日[3]にちなみ、彼の個人名はジャガーの爪である。ボドリ絵文書とヌッタル(ナットール)[4]絵文書を含むいくつかの絵文書に「八の鹿・ジャガーの爪」の叙事的な歴史に関連する記述があり、彼がミシュテカのほとんどの地域を征服し、統一することに成功したことと最後には52歳のとき戦いに敗れ生け贄になったことを記している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%86%E3%82%AB
ミシュテカ文字
ミシュテカ文字(ミシュテカもじ)は、今のメキシコ南部のオアハカ州西部からプエブラ州南部にかけて広がるミシュテカ文明によって使用された文字。後古典期からスペイン人による征服以降の17世紀ごろまで使われたが、部分的にしか解読されていない。
中央メキシコのアステカ文字と同様に、絵を中心として、数字や暦の日付、固有名詞などを補うために文字が使用される。このため、単語を記すことはあっても文字だけで文章を記すことはなく、文字というよりも原文字に近い。
概要
ミシュテック語(英語版)は、サポテック語と同じオト・マンゲ語族に属しており、アステカ文字で表されるユト・アステカ語族のナワトル語とはまったく異なるが、ミシュテカ文字はアステカ文字とよく似ていて、主要な情報は絵によって表され、絵では表現が難しい日付、人名、地名などが文字によって補われる。ライデン大学のヤンセンによると、両者はおそらくともにテオティワカンに起源を持つという[1]。
ミシュテカの地では、もとサポテカ文字に近いニュイニェ文字と呼ばれる文字が使われていたが、後古典期早期以降はミシュテカ文字が取ってかわった[1]。
アステカ文字と同様に、地名ではときに表音的に文字が使用される。たとえば、Yucu Dzaa(鳥山、トゥトゥテペク)という地名は、山と鳥で表されるが、鳥の中に顎の絵が含まれており、dzaa(顎)と読むことを表している[1]。
数字は円を並べることで表す。たとえば13は円を13個並べる。ミシュテカでもメソアメリカで一般的な260日の暦が使われたが、これは13の数字と20の日付の記号(多くは動物の顔)を組み合わせる。52年のカレンダー・ラウンドを表すための特別な記号があり、ラテン・アルファベットの大文字のAとOを組み合わせたような形をしている。この記号の中に4つの日付の記号のひとつ(ウサギ・葦・石刀・家)を書き、数字を加える。
資料
現存するミシュテカ文字の主な資料は鹿皮に書かれた絵文書や布(lienzo)である。ミシュテカ絵文書はティラントンゴを中心とするミシュテカの歴史、とくに八の鹿「ジャガーの爪」の事績を記している[2]。大部分の絵文書はイギリスやイタリアなどのヨーロッパにあるが、コロンビーノ絵文書はメキシコにある。
ボドリ絵文書(Codex Bodley)
ウィーン絵文書(Codex Vienna / Codex Vindobonensis Mexicanus 1[3])
ナットール絵文書(Codex Zouche-Nuttall)
コロンビーノ絵文書(Codex Colombino-Becker)
セルデン絵文書(Codex Selden)
エジャートン絵文書(Codex Egerton 2895 / Codex Waecker-Gotter / Codex Sanchez Solis)
ムーロ絵文書(Codex Muro)
テュレーン絵文書(Codex Tulane)
このうち、エジャートン絵文書とムーロ絵文書はラテン文字でミシュテック語を記している[4]。
メキシコの考古学者アルフォンソ・カソは、これらの絵文書をスペイン人の残した地図と比較することでミシュテカの王統を明らかにした。
ほかに、ボルジア絵文書などの宗教的な内容を持つ絵文書群(ボルジア・グループと呼ばれる)の一部分もミシュテカのものと言われることがあるが、学者の意見は一致していない[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%86%E3%82%AB%E6%96%87%E5%AD%97