アメリカ大陸には、今から約2万年前、ベーリング海峡が凍結してユーラシア大陸と陸続きだった頃に、モンゴロイド系の人々が西から渡ってきて、北米~中米~南米へと時間をかけて拡散していったという。 (cf. No.511)
中米(メソアメリカ)の文明は BC7,000-2,000年を古期、BC2,000-AD200年を先古典期と区分して、古期の初期に農耕が始まったことから生活が安定して文明が萌芽したと考えられている。
先古典期にテワンテペク地峡のメキシコ湾岸側を中心に花開いたのがオルメカ文明である。後のメソアメリカ文化圏(マヤやアステカ文明)に広範な影響を与えた「母なる文明」とされる。
日本はその頃、縄文時代後期から弥生時代を迎えていた。
オルメカ文明は巨石人頭像や巨石の表面に彫られたレリーフ、暦を記した石碑、副葬された大量の儀礼用石斧など、謎めいた様々な遺物を残しているが、鉱物愛好家の関心を惹くのはやはりジェード器の類だろう。彼らが利用した石材は多岐にわたるが、中に蛇紋岩やジェーダイト、その類似石を用いた磨製石器や装飾品がある。
先古典期中期のエル・マナティ遺跡の埋葬石斧は、トウモロコシの実を長く伸ばしたような美しいフォルムの歯状斧で、黒~灰緑~濃緑~淡灰碧~灰色などの艶やかな表面をもつ。
同じくラ・ヴェンタ遺跡からはニュージーランドの棍棒(メレ)を想わせる細長い石斧や細長い頭部を持つ人物像、装飾品に加工された大量のジェード器物が出土した。これらの中に灰青~暗蒼~青緑色といった沈んだ青みを帯びるジェーダイトがある。
また南に下ってコスタリカには先古典期後期から始まる文化圏(BC300-AD500年)があり、神人を象った、あるいは線刻を施した石斧が出ている。斧神 Ax-Gods と呼ばれるが、この石材にも青色~青緑色のジェーダイトが用いられている。私は読んでなくてナンだが、「先コロンブス期のコスタリカのジェード」(1968年)という図書の中で、著者のE.K.イーズビーはある種の斧神に見られる純粋な青色を「オルメカ・ブルー」と呼んだようである。
描かれた神人の姿はさまざまで、 F.ワード著「ジェード」(2001)は数世紀の間にスタイルが変化したこと、初期のものは中国の古代玉器に見られるのとそっくりの人物像(支那人風)であり、最後期に現れるのはエイリアン来訪説を支持するかのような奇怪な像であることを指摘している(日本の遮光式土偶に似る)。
No.922 で述べたように、メソアメリカ圏のジェード産地はスペイン人の到来以来、数世紀の間、白人文化圏から隠されていたが、20世紀中頃にモタグア川の中流域で転石が発見され、1974年に初生鉱床が確認された。そして 1987年にはライジンガー夫妻らがオルメカ古玉器に見られる青緑色のジェードを再発見して、「オルメカ・ブルー」と呼んだ。ただし G;amp;G誌 1990年夏号(D.ハーゲット寄稿)によると、イーズビーの言う「オルメカ・ブルー」とは色味が異なるようである。
そして 1998年の巨大ハリケーン・ミッチの襲来を機に、モタグア峡谷の南北で大量の青緑色ジェードが現われた。周辺の地質-考古学調査を主導した R.ザイツはこの石材(※例えばケブラダ・セカ村付近で発見された 300トンの大塊)を「オルメカ・ブルー」と呼んでいる。
ザイツらの調査の経緯は別の機会に述べたいが、以来、市場においても青色系ジェーダイトが出回るようになった(それまでは売れ筋が緑色系~黒色系だったため、青色系の石は利用されなかったらしい)。
グアテマラ産のジェーダイトは世界のジェム・ショーでお披露目され、中国の翡翠業者にも渡っている。画像はそんな一品で、口を開けた狛犬(瑞獣「ヒキュウ」)を現代の精緻さで彫ったもの。いうまでもないが中華風テイストである。
いわゆるスノーフレーク(雪片)タイプで、褪めた藍のような沈んだ色合い。玉質としてはオルメカ文明の人々が知っていたよりはるかに優れているのではないかと愚考する。
現代の中国は清代に愛好された翠色以外の翡翠にも需要があるらしく、伝統的な嗜好があるとも思えない色でもジェーダイトであれば商品化して市場に問うているようだ。あるいはオルメカ文明と中国文明との間には、はるか遠いルーツに遡る、何か響きあうDNAが潜んでいるのだろうか。
cf. No.924 (マヤ文明のジェード)
補記:そもそもオルメカの玉器にはさまざまなニュアンスの青色系ジェードがあるので、「オルメカ・ブルー」といって、その定義はいずれが正しいと決めるわけにいかない。実際、「オルメカ・ブルー」に言及した文献、記事を漁ってみても、たいていはただ「オルメカ文明の石器に見られるのと同じ青色(または青緑色)」と述べているだけで、その例を示すことをしない。いわば言葉が醸すノスタルジックなイメージ、アピール効果が重宝されているのであろう。
https://lapisps.sakura.ne.jp/gallery3/9guatblue.html
続き
メソアメリカ文明の時代区分は AD250年頃からAD900年頃までを古典期と呼ぶ。その後、ヨーロッパ人が到来してアステカ帝国を滅ぼす頃まで(16世紀第一四半世紀)を後古典期とする。この以前をまとめて先コロンブス期という。以降は白人(ヨーロッパ人)文明の影響が及んでゆく。
古典期はいわゆる古代マヤ文明が繁栄した時期で、オルメカ文明が衰微した後を受けて、中央アメリカの各地、特にメキシコシティー周辺やユカタン半島、その西側沿岸部にさまざまな都市国家が存亡を繰り返したらしい。
彼らは大規模かつ壮麗な石造りの(祭祀用神殿と目される)建造物を建てた。メキシコシティの東のテオティワカン(先古典期末期-古典前期)、チアパス地方のパレンケ(古典後期)、ユカタン半島のチチェン・イッツァ(古典後期-後古典期)やウシュマル(古典後期-後古典期)、グアテマラ中北部のティカル(古典期)、ホンジュラス北部のコパン(古典期)などの遺跡が有名だが、これらの多くは 10世紀頃までに放棄されて、やがて密林の中に埋没していった。
16-17世紀のスペイン人征服者は、遭遇した住民が偶像崇拝の神殿を持っていることに目くじら立て、キリスト教の神に代わって怒りの鉄槌をふるったが、一方で住民が彼ら自身の住居よりよほど立派な遺跡に囲まれて暮らしていることの不思議さを書き留めている。聖職者らはまた、改宗のためと称してマヤの宗教を熱心に学んだ。
先駆的な報告は別として、密林に隠された遺跡は長く西洋社会の関心を惹かなかったが、1746年にデ・ソリス神父が発見したパレンケの「石の家」「宮殿」は保存状態もアクセスもよかったので、博物学の時代にふさわしく冒険家たちのロマンチックな視線を集めた。
1786年には A.デル・リオの探検隊が周辺の森林を伐採し、頭像や神聖文字を刻んだ石灰岩板、神殿内にあった石製武器や土器などを根こそぎ浚ってスペインに持ち帰った。彼の報告書は 1822年に版画付きで出版されたが、絶世の美を誇るこの建造物は古代ギリシャ・ローマの古典文明の影響下に作られたに違いないと説いている。古代マヤ文明期が古典期と呼ばれる由縁だが、今日この説は信じられていない。
1841年に出版された J.L.スティーブンズの「中央アメリカ、チアパス、ユタカンの旅の事物記」はコパン、キリグワ、トニナ、パレンケ、ウシュマルなどの遺跡を訪ねた探検記で、 F.キャザウッドのエキゾチックなスケッチ画のおかげもあって人気を博し、世人に広くマヤ遺跡の存在を知らしめた。二人は 43年に 2冊目を出し、44の遺跡を考古学的な視点から解説した。
https://lapisps.sakura.ne.jp/gallery13/924jadeguat3.html
cf. No.511
アラスカに住むエスキモーの祖先が、大昔、ヨーロッパとアメリカ大陸とが陸続きだった頃にベーリンジアを渡って、あるいはベーリング海峡で隔てられた後はその浅い海を渡って、アジアからアメリカにやってきたという説は、エスキモーと(さらには内陸部のインディアンと)アジア人との間に潜む民族文化的な共通性を想起させ、私たち日本人にはロマンが感じられる。
この説は仮説であって、ほんとうのところは分からないのだが、環太平洋エリアの島嶼や大陸沿海部に伝わる文化には単なる類似以上のものがありそうに私には思える。
例えば、ニュージーランドのマオリ族が伝えるトーテムポールの文化がアラスカにもあること(立ち姿や手の位置、股の間に人が挟まるデザインなどの類似⇒軟玉の話3参照)、中国(四川省など)から日本、シベリア、そしてアラスカに亘って広がるワタリガラスの信仰が挙げられる。アラスカ、クリンギット族のトーテムポールの先には、鳥(カラス)の姿が彫刻される例があるが、これは朝鮮半島の鳥竿(ソッテ)、また中国揚子江流域の稲作家屋に見られる鳥柱や四川省三星堆の遺物に通じるものがありそうだ(⇒ひま話 太陽と鳥の信仰1)。
とはいえ、アラスカン・エスキモーの軟玉石器が古く中国の玉文化に通じるものだ、とまでは、さしたる知識もない私は、さすがに言うことが出来ない(調べてみたいが)。
ただコバック川の軟玉が大陸の北部地域、すなわちベーリング海峡から太平洋岸にかけてのアラスカ各地、さらに降ってカナダBC州、そして東方のカナダ極地方の古い先住民集落に供給されていたということは、特に否定する向きがないようである。
No.510で述べたように、アメリカ人は19世紀の終わりにジェード・マウンテンで軟玉の初生鉱床を発見した。その後1943年から45年にかけてアラスカ鉱山局がその付近の、ほぼコバック川に沿って北に伸びる蛇紋岩帯に石綿の探査を行った(ジェード・マウンテンを西端とし、コゴルクツク川の沖積地を東端とするエリア)。このときも軟玉が発見されて、1945年には約200トンの石綿(戦略物資とされていた)と約11トンの軟玉とが採掘された。アラスカで二番目に大きな軟玉産地ダール・クリークはこのエリアにある。
先般、同州アンカレッジ市を訪れたとき、ビジター・ビューローの建物前にダール・クリーク産の大きな転石が置かれてあるのを見た。⇒参考画像 数十年前からあるらしい。軟玉は州の大切な資源のひとつと考えられており、1968年に州の宝石に指定されている。
ちなみにダウンタウンで覗いた土産物屋さんでは、美しい深緑色の軟玉細工が沢山売られていたが、ほぼすべて、カナダ、カシアー産のブランドマークがついていた。
上の標本はわりと古いラピダリー用のスラブ片。裏面に産地を記したシールが貼ってある。業者さんによれば、"Alaskan Jade Yukon, Culver"と読めるとか。Yukonまではいいとして、その後の綴りは私にはまったく違って見える。産地の詳細は定かでないが、アラスカ産(ユーコン川流域)ではあるだろう。
ユーコン地方で最初に発見された軟玉産地はワトソン湖北方のキャンベル・ハイウェイで、1968年にカール・エブナーが発見した。
BC州の産地の延長線上に蛇紋岩帯が長く伸びており、キャンベル・レンジやアンヴィル・レンジに多くの初生鉱床があるし、ほかにも無数の産地が眠っているとみられている。ユーコン川沿いのいくつかの地点では水磨礫が発見されている。もっとも質のよい石はホワイト・ホースに近いマイルズ・キャニオン付近で採集出来るという。
アラスカのゴールド・ラッシュで有名なクロンダイクでも、金鉱のひとつサルファー・クリークから軟玉が採れたようで、ニューヨーク・メトロポリタン美術館のビショップ・コレクションに標本が収められているという。
https://lapisps.sakura.ne.jp/gallery7/511yukon.html