相沢忠洋(あいざわただひろ)
1929年生-1989年没。独学で考古学を学び、納豆の行商などをしながら赤城山麓の遺跡を調査し、岩宿遺跡を発見した。イアン タッターソル
アメリカ自然史博物館人類学部門名誉学芸員。ケンブリッジ大学で考古学と人類学、イェール大学で地質学と脊椎動物の古生物学を学び、これまでにマダガスカル、ベトナムなどの世界各国で霊長類学と古生物学の調査を実施。ヒトの化石や進化、認知機能の起源、マダガスカルのキツネザルの生態研究を主な研究テーマとする『ヒトの起源を探して』著者略歴より
神保 小虎(じんぼう ことら)
慶応3年5月17日(1867年6月19日) - 大正13年(1924年)1月18日)。明治時代から大正時代にかけての地質鉱物学者。こちらを参照
諏訪 頼水(すわ よりみず・1571年―1641年)
諏訪 頼水(すわ よりみず)は、安土桃山時代、江戸時代前期の大名。信濃諏訪藩の初代藩主。諏訪頼忠の長男。天正5年(1577年)、6歳で父頼忠から諏訪大社大祝(おおほうり)職を譲られる。天正18年(1590年)、父と共に小田原征伐に従軍する[3]。その後、主家の徳川氏が関東に移封となったため、頼忠父子はこれに従って諏訪を離れて関東に移り、武蔵国奈良梨に所領を与えられた。その翌々年、上野国総社へ移封され、同年に父から家督を譲られている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従い、信濃国や上野国の守備を命じられた。その功績により、戦後の慶長6年(1601年)10月、信濃国高島2万7,000石へ復帰を許された。
転載元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E9%A0%BC%E6%B0%B4
田中 阿歌麿(たなか あかまろ)
1869年10月30日(明治2年9月26日) - 1944年(昭和19年)12月1日)。日本の地理学者。子爵。日本の陸水学(湖沼学)の先駆け。こちらを参照
坪井 正五郎(つぼい しょうごろう)
文久3年1月5日(1863年2月22日) - 大正2年(1913年)5月26日。日本の自然人類学者。こちらを参照
鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう)
1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1953年(昭和28年)1月14日)。日本の人類学者、考古学者、民族学者、民俗学者。こちらを参照
ナウマン
エドムント・ナウマン博士はドイツの地質学者で、明治政府の招きで東京開成学校鉱山学科の教授として、明治8年(1875)年7月1日 弱冠20才で来日した。10年間、東京大学地質学教室の初代教授となって地質家を養成し、日本列島の地質調査に従事した。日本初の本格的な地質図を完成させるなど、我が国近代地質学の基礎を作り、明治の殖産興業に大いに貢献した。博士の調査は北海道を除く日本の全地域で行われ、調査距離は1万kmにもおよんだ。当時は、等高線のある地形図はなく、地図としては伊能図の海岸線の輪郭図のみだったので、測量しながら地質調査をするという大変な仕事だったようだ。フオッサマグナを発見したのも博士の業績である。ナウマンゾウの名前は、日本でゾウの化石をはじめて研究した博士の名前にちなんでつけられた。 「先史時代の日本の象」「日本群島の構造と起源について」などの論文を残し、明治18年(1885)年7月12日、30才でドイツへ帰国した。橋本 福松(はしもと ふくまつ)
1883年3月24日 - 1944年2月5日。日本の地理学者、実業家。旧姓は平沢。長野県上伊那郡西春近村(現伊那市)生まれ。旧松本藩士の橋本房太の養子となる。上京して正則英語学校卒業。1902年諏訪郡玉川小学校の教員となり、校長の島木赤彦に師事する。のち諏訪高等女学校等で教鞭をとりながら、諏訪湖の研究に打ち込み、1906年に湖底の「曽根遺跡」を発見、1910年には「諏訪地図」を完成させる。
こちらを参照
伏見宮 博英(ふしみ ひろひで)
1912年(大正元年)10月4日 - 1943年(昭和18年)8月21日)。日本の伏見宮家(皇族)出身の伯爵(華族)である。伏見宮博恭王の第4王子。皇族時代は博英王といった。香淳皇后(昭和天皇后)の再従弟にあたる。こちらを参照
藤森 栄一(ふじもり えいいち)
1911年(明治44年)8月15日 - 1973年12月19日)。日本の考古学者、諏訪考古学研究所所長、元長野県考古学会会長こちらを参照
保科 百助(ほしな ひゃくすけ)
1868年7月27日(慶応4年6月8日) - 1911年(明治44年)6月7日)。日本の教育者、鉱物学者。「にぎりぎん式教育」を提唱した。号は蜻洲(せいしゅう)、後に五無斎(ごむさい)。こちらを参照
山内 清男(やまのうち すがお)
1902年1月2日 - 1970年8月29日。日本の考古学者。東京大学講師。成城大学教授。文学博士。 日本の考古学研究においてもっとも功績のあった考古学者の一人。型式学的研究法および層位学的研究法を応用した土器の年代決定を本格的に用いて、縄文土器の全国的な編年網を初めて作り上げた。また、縄文土器の器面(表面)に施されることが多い「縄文」について、植物繊維を紐(縄)状に縒ったもの(縄文原体)を転がして付けていることを実験によって明らかにした。なお、山内自身は、自身の研究において「縄文」ではなく「縄紋」の文字を終生用いた。転載元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E6%B8%85%E7%94%B7
八幡 一郎(やわた いちろう)
1902年4月14日 - 1987年10月26日。日本の考古学者。 専攻は縄文時代、民具の研究