諏訪地方の縄文時代


縄文人の病気

転載元http://rarememory.justhpbs.jp/suwajyou1/suwa.htm



 縄文人は現代人と比べると、大変虫歯は少ないが、食料採集民としては異常な程虫歯が多い。この事からも縄文人が環境に恵まれ、多種多様の食料を得ていた事が分かる。その一方、中期以降抜歯の風習が広まり、実際より虫歯を少なく見せる結果となった。
 歯学を専門とする井上直彦氏によると、縄文人は食料採集民の中で虫歯率(現在ある歯の中で虫歯が占める割合)が約10%と高く、アメリカのカリフォルニア・インディアンの約25%に次ぐ高率という。
 千葉県市川市柏井1丁目にある今島田(いましまだ)貝塚では、下顎の左側の臼歯(きゅうし)2本が虫歯になった約4,500年前の男性の人骨が出土しており、市川考古博物館の常設展示室に展示されている。この人骨の臼歯には、小さい方は直径・深さとも約4mm、大きい方は歯の片側半分に及ぶ穴があいており、歯医者などいなかった時代、こうした歯の痛みに襲われた縄文人は、一体どのように耐えていたのか?世界的風俗であるが、縄文時代には抜歯がごく一般的に行われていた。抜歯は治療の一環でもあった。
 興味深い例として、兵庫県の宝塚市や岡山県の笠岡市では、地下水にフツ素が溶け込んでいることから、そこに住む人々の虫歯率は時代を問わず他地域より低いらしく、縄文時代に属する笠岡市津雲(つくも)貝塚の人骨にも虫歯が少ないと言われている。現代人は、医学の発達によってフツ素の効能を知っており、積極的に虫歯予防に使われている。フツ素の効能を知らなかった津雲貝塚の縄文人たちも、その恩恵に預かっていた。

 茨城県行方市(なめがたし)の若海貝塚(わかうみ)で平成10(1998)年に推定身長170㎝の縄文時代中期の人骨が出土した。2011年7月7日、富山市呉羽町北の小竹(おだけ)貝塚で、縄文時代としては過去最大級の身長170㎝超と推測される男性人骨が見つかった事を、富山県文化振興財団と東京の国立科学博物館が7日明らかにした。縄文時代前期(約6,000~5,500年前)の人骨群の一つで、骨の状態などから20歳代とみられている。縄文人男性の平均身長は150㎝台後半である。

 縄文人の生業は専ら肉体労働だ。発掘された人骨の多くの腰椎に、椎間板の退行性変化と椎体部の骨棘(こっきょく;骨の一部が骨端付近で棘状に突出する変形性関節症)形成が見られる。この変異は現代人はもとより、江戸時代と較べても、遙かに早い年齢層で発症している。同様、膝にも関節軟骨の摩耗による変形性関節症が極めて多い。それも30才の成人の変化だ。手関節から指関節まで同じような状況であるから、その日常が如何に肉体を酷使するものであったかが想像される。
 縄文人の骨の変化で特記されるべき事は骨折が非常に多いことだ。狩猟の際に全力で走り獣と戦う。前腕骨の骨折の頻度が高い。橈骨(とうこつ:前腕の親指側にある長骨)にも尺骨にも同等に骨折が認められている。荒野を獲物を追い全力疾走すれば転倒がつきものだ。深刻なのは大腿骨の骨折で、その後の歩行もままならず、その後の苦難が想像される。当時副木などによる骨折固定が既に行われていた。骨折の接合部を見ると、縄文人も懸命に、生業への復帰を模索し努力していた。

 縄文人の歯の噛み合わせは、圧倒的に多くが上下の歯が毛抜きの刃のように重なり合う。現代日本人のほとんどは、上の前歯が下の前歯に覆いかぶさる噛み合わせになっている。人類の歯はもともと、上下 噛み合わせだったといわれ、縄文人は歯並びが良く、「親知らず」が生えそろっている例がほとんどだったようだ。食生活などの変化でよく噛むことをしなくなった現代日本人では下顎(したあご)が退化して歯並びが悪くなったり、歯の数が減ったりする。

 縄文人は、意外にも病気に悩まされていて、リュウマチ・小児麻痺・小頭症・口蓋裂・栄養失調・運動による骨折や関節が摩耗して起こる変形性関節症等による痛みにとか、さらに蓄膿症による副鼻孔炎などと、かなり持病が多かったようだ。しかしながら長期の治療を要する怪我をしても、家族や集落の仲間により、手厚く保護されていた。ただ、深刻な伝染病などは、晩期に大陸から人々が渡って来るまではなかったようで、三内丸山古墳等の大集落の終焉を、伝染病のせいに、簡単に帰することが出来ない。

 縄文人は保健衛生にも留意して、縄文時代のトイレは、川岸に張り出した所にあり、川に直接排便をした。最近まで日本ではあたりまえだった汲み取り式よりも、格段に衛生的で天然の水洗便所だ。遺跡では杭の先だけが川底に残っている場合があり、その付近の川底から糞石(ウンチの化石)が見つかる事がある。
 弥生時代も縄文時代と同じように、川に直接排泄をした。やがて川にロープが張られ、それにつかまって用をたすようになる。さらに川の中に小屋を置き、そこで排便をする。これが厠(川屋)の原型で語源でもある。川のないところでは、高下駄を履いて路傍に糞尿を垂れていた。高下駄は排泄物が着物につくのを防ぐために履いた。

 それに縄文時代には、肺結核は無かったようだ。結核は家畜の病気であったものが約1万年ほど前、人に感染したものといわれている。昭和29年迄死亡原因の第一位は結核でしあった。結核は弥生時代から古墳時代にかけて、大陸から渡来人によって日本にもたらされた。それ以降多くの若者の命を奪って来た。
 日本では、大正10年から14年の人□について作成された生命表が、最初で正確とされている。さて、これより古い時代の生命表は、ロンドン市民について17世紀中頃に作成されたのものが最古で、この時の平均寿命は、わずか18.2歳だった。

 日本でも、縄文時代の遺跡(主に貝塚)から出土した人骨を調べて寿命の推定がおこなわれた。この推定では縄文時代早期から晩期までの遺跡から出土した人骨のうち、死亡時年齢が15歳以上と推定された男女合計235例のデータに基づき生命表が作成された。寿命が推定されたが、ここでは15歳以上を対象としたので子供の骨の出土数が成人と比較して少なかったようだ。作成された生命表で、15歳の縄文人の平均余命は、男女ともに16年。
 では、縄文時代の平均寿命は、15+16で31歳でしょうか? しかし、この中には15歳までに死亡した子供が含まれていない。このために、15歳までの死亡数については、18世紀前半のヨーロッパの生命表を適用することが試され、縄文人の平均寿命が15歳と推定された。もちろん、縄文時代では18世紀のヨーロッパよりも子供の死亡数が多かった。実際の平均寿命でいえば当然15歳よりも若かった。
 一方、人類学者の小林和正氏は、全国から出土した縄文時代後半の人骨235体分を調査し、15歳以上の平均死亡年齢が男性で31.1歳、女性で31.3歳である事と、単純な平均死亡年齢にすると男女とも14.6歳と結論している。実際問題として、医療技術が未発達であった縄文時代は幼児の死亡率が極めて高く、病気・けが・栄養失調・出産・過労など、命を縮める要因が極めて数多くあった。小林氏は、人口の6割程度が15歳に達するまでに死んでしまう社会が縄文時代にあったとするれば、平均8人程度の子どもを産まないと人口が保てないとも指摘しており、縄文時代が多産であったことが分かる。
 どうして、このような現象がおこるのかというと、狩猟・漁撈・採集の生活は、自然条件に左右されて、とても不安定であった。多くの人が成人になる前に死亡している。海岸の魚介資源に恵まれた神奈川県の平板貝塚で、壮年男子の骨が出土しているが、その骨には、数度にわたる飢餓の痕跡・骨の成長が停止する餓死線を遺している。ロマンの縄文時代を実現したのはどこの地域にあったのであろうか。








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