北陸地方の縄文時代
転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/jyoumon/
旧石器時代の漁労活動の痕跡は、当時の海岸部が海底下にあるためか出土実績が無い。一方、漁労は縄文人の生業を特色づける重要な1つで、地域的特性の好例にもなっている。縄文早期の末から前期の初め(6,000年前)頃の、富山湾周辺の遺跡群、朝日町の明石A遺跡、石川県穴水町の甲・小寺遺跡、能登島町佐波遺跡など海岸部の遺跡から石錘が出土している。石錘や土錘が多量にあれば、漁網の使用が推測される。日本列島では、漁労は川から始まり海へと生業範囲を広げ、海に乗り出したのは縄文時代になってからのようだ。釣り針・ヤス・モリなどの漁労具の改良とともに漁網が広く活用された。網の断片は縄文晩期の愛媛県松山市船ヶ谷遺跡でも出土し、現在の漁網と結び方は一緒であった。その網のの間隔が最大9mmと小さくタモ網と見られている。
縄文早期には網でイワシ漁も行われていた。北海道渡島半島の縄文早期遺跡からは多量の礫石錘が発見された。関東地方の縄文中期の貝塚からは、大量の土器片土錘がでている。単なるタモ網漁ではないようだ。
実際、現代同様、網の製作・手入れには大変な作業が伴う。縄文時代貝塚には網でなければ獲れない小型の魚が貝塚から出土している。昭和35(1960)年、宮城県鳴瀬町里浜貝塚で鹿角製の網針が発見された。
日本列島の酸性土壌では、直ぐに骨を溶かしてしまうため、丘陵や平野部から、縄文時代の人骨や食べ物の残滓が遺存しない。海浜部の貝塚では、貝殻のカルシウムによって魚介類の骨や食物残滓などと、土器や石器類などの生活用具が多量に層をなして累積している。その時代の生業を知るうえで貴重な史料となる。弥生時代以降の貝塚遺跡もあるが、食料源として貝の比重が、縄文時代と比べて少ないようで、その規模と数でともに及ばない。縄文人は陸産の植物資源のみならず海産資源も盛んに利用していた。骨角製の釣り針やヤス・モリなどの刺突具の本格的な活用がなされた。特に漁労具の改良は著しかった。シカの角が複雑で精度の高い種々の加工を容易にした。陸の槍を水界に転用したのがヤスであり、それに紐を結んで投げて突くように工夫したのがモリだ。ヤスは浅瀬の魚、モリは大型の魚や海生哺乳類用となる。シカの中手骨や中足骨が人の手の甲の骨にあたるが、シカのこの骨が真っ直ぐで長いので、細かい加工がし易かった。それで縦に裂いて使った。ヤスは縄文早期にはかなり浸透していた。前期には多種で独創的な逆鉤(あぐ)をつけたヤスが関東地方に現れている。
6,000年前をピークとする縄文海進は、栃木県南部にまで至り、鹹水(かんすい)産貝類を含む貝塚が出土しているぐらいの環境変化が、重要な縄文時代の画期となっている。
北陸地方の縄文前期初頭の集落で、どんな魚が食膳に上ったかが分かる。氷見市朝日貝塚(中期)では、アカエイ・タイ・マグロの骨が検出されている。石川県能登町の真脇遺跡(前期~晩期)では、サバ・カツオが比較的多く、スズキ・クロダイ・マダイ・イシダイ・マフグ、あるいは大型魚のマグロ類・サメ類など、20種近くの魚骨が検出された。
網漁のほかに釣りによる漁も行なわれていた。縄文前期後半の富山市呉羽町字小竹の小竹貝塚(おだけかいづか)からは、イノシシやシカの骨製釣り針、同じ素材の装身具のヘアピンなごが出土している。埋葬された人骨13体が、イルカやサメ、クロダイ、イヌ、イノシシ、シカなど生物の骨や歯などと伴出した。釣り針は関東地方では早期や前期から既に出土例が多く、中期後半以降は仙台湾周辺から、後期中葉からは西日本でも増加していく。
朝日貝塚は、アカガイやハマグリ・バイを主とした貝塚で、発見された貝の種類は40種類にも上っている。その朝日貝塚出土の骨で見落とせないのが、イルカで、現在氷見市立博物館に保管されている資料では、少なくとも24頭を数えることができる。内訳は、マイルカ17頭、カマイルカ3頭、バンドウイルカ2頭、ゴンドウクジラ類1頭、不明1頭。この数は朝日貝塚出土のイノシシやシカなどの陸獣の2倍以上にもなる。
朝日貝塚の人びとは、殆ど、富山湾から生活の糧を得ていた。小竹貝塚でも、イルカの骨が他の獣骨より多い、真脇遺跡でも、285頭のイルカの骨が確認されていて、ここでもイノシシやシカに圧倒的な差をつけている。縄文時代全体を通して、今より暖流が北上していた。全てが温暖種で、カマイルカ・マイルカ類が主である。
縄文時代にイルカ漁を盛んに行っていた遺跡が残されている地域は、富山湾岸以外では、北海道東部の釧路川河口付近と中央部の内浦湾沿岸地域、それに東京湾口の千葉県館山市鉈切洞窟遺跡(なたぎりー)と横浜市称名寺遺跡・相模灘沿岸地域などがある。大量のイルカの骨が出土し、まさにイルカ村であった。同じ北陸でも、日本海に直接面している石川県宇ノ気町の上山田貝塚では、イルカの比重が極端に少ない。北海道網走郡女満別町の豊里遺跡の出土遺物には、イルカ・トドなどの海獣が含まれている。同じく北海道常呂町のトコロ朝日貝塚では、貝類はカキ貝が主体で、ベンケイガイ、タマキガイ、ホタテガイ、ハマグリ、ヤマトシジミ、ウバガイなどを採集し、アシカ・トド・、ヒグマ・クジラ・イヌなどが食肉源であった。東京都あきる野市の前田耕地遺跡(まえだこうちいせき)は多摩川に面している。縄文時代草創期の住居の床からサケの顎が出土した。多摩川の河原で採取した石材で大量の石槍を製作し、秋に遡上するサケを獲っていた。
岸近くまで深さを保つ富山湾では、真脇の小さな湾や、かつての十二町潟(じゅうにちょうがた)や放生津潟(ほうじょうづがた)の潟口まで、イカやイワシの群を追って、イルカが回遊していた。
縄文時代もイルカは大量に捕獲されていた。真脇遺跡のイルカ骨の出土は、「足の踏み場もない位」の285頭にも上る。骨の56%がカマイルカ、35%がマイルカで、この2種類が殆どで、他にバンドウイルカやゴンドウクジラ類が含まれていた。その多くに、5、60㎝単位の解体痕があった。
真脇遺跡の近辺では、江戸時代から昭和初期までイルカの追い込み漁が盛んであったという記録も残されている。
イルカの捕獲活動について研究を進めた平口哲夫氏(金沢医科大学)は、「1回に何十頭も捕獲したのではなく、5、6頭以下というのが平均的な捕獲数ではなかったか」といわれる。数十頭数百頭という大量捕獲でなくとも、小型イルカ類の平均体重は、シカやイノシシと極端な差はないので、その数頭の捕獲はムラの食卓を潤して、なおもあまりあるものであった。
カマイルカの平均体重は約100kgあり、食料以外にも、脂肪は燈下用の燃料、骨製道具材として、また皮もなめして利用されたかもしれない。干肉や脂肪は、他地域へ交易品として運ばれた。真脇で捕られ、解体されたイルカは周囲の縄文の村と交易された。同遺跡から入江まではわずか200m、縄文海進時には真脇湾を見渡す高台にあった。七尾まで直線距離にして約33km、氷見まで約52kmある。同遺跡からは舟の櫂(かい)が出土している。イルカの切身の塩蔵を土器に詰め、丸木舟で一気に七尾辺りまで運び込んだ。
日本の製塩は縄文人が発明した。土器の海水を煮詰める。その煮沸効率を上げるため、底が薄く小さな深鉢形土器を製塩専用に作り出した。関東地方の縄文後期には登場し、やがて東北地方や東海地方へと伝播した。縄文の塩は食料の保存用であった。それも魚が主体であった。関東地方には製塩用土器片が広く分布している。塩がこびりついた魚と土器片を一緒に漬けこみ流通させた。真脇の縄文人も、土器技術・海の塩・海産資源の三拍子を備え、大いに交易に励んでいただろう。なお縄文人が必要とした塩分は、動物の髄や血などから自然に摂取していた。
縄文人は、それぞれの地域環境に適応し、採集経済社会として極めて高度な生活を、各地で展開していたが、富山湾岸に住む人々には、対馬暖流に乗って春から秋に回遊して必ずやって来るイルカは、まさに富山湾からの贈り物であった。内浦湾岸の北海道伊達市北黄金貝塚(きたこがねー)出土の縄文人の骨による食性分析では、タンパク質の7割以上が海洋哺乳類から摂取されていた。この傾向は北海道沿岸部の近世アイヌ人まで続くという。富山湾岸の人々の生業の様子も同様であったであろう。
イルカの群れが発見されると、丸木舟で漕ぎ出して湾内に追い込み、網で仕切り、石銛や鹿角製大型モリで突き刺し、浅瀬に追い込んだものは素手で引き上げた。獰猛なシャチや巨大クジラは海岸に漂着したものを捌いた。危険性と緊張感を必要とするこの共同作業には、集団の結束が欠かせない。イルカやクジラの肉の保存は、日干し・火干し・煮干しなどの乾燥方法、海水で煮る塩煮、製塩が行われていれば塩漬け、或いはイルカの油による油漬け、燻製も考えられる。
長野県富士見町境の藤内遺跡(とうない)九号住居跡から炉上の吊り棚に貯えられたとみられる多量のクリが出土した。古代の住居は屋根が低い、火炎や火の粉が天井に達しない様に、炉の上に火棚を設けた。日常的に火棚に各種食料を置き、燻蒸貯蔵をしていたようだ。真脇の人々は塩煮したイルカ肉も火棚に置き、いつでも食べられる食料としていたかもしれない。
朝日貝塚で発掘された15歳前後と推定される男性人骨は、魚の脊椎骨を首飾りとしていたと報告されている。イルカの歯に穴を開けた装身具もあった。