ロシア共和国ウラル地方のチェリャビンスク州にあるマヤーク(Маяк/Mayak) 核技術施設は、すでに半世紀以上にわたって、原子力発電所を稼働させてきたプラントだ。といってもその目的は電力ではなく、原子爆弾に用いるプルトニウムの生産にあった。マヤーク(灯台の意味)とはここで製造された原子爆弾の名で、5基の原子炉を持つこのプラントの周囲には技術者とその家族の住む都市が秘密裏につくられ、「チェリヤビンスク65」の暗号名で呼ばれた。
旧ソ連では、放射性廃棄物の取り扱いがずさんで、液体廃棄物は近くの河川や湖にタレ流しにするのが常態化していた。だがやがて、労働者や付近の住民に健康被害が生じるようになり、高レベルの放射性廃棄物は濃縮してタンクに貯蔵する方法に切り替えられた。
放射性廃棄物の入ったタンクは、崩壊熱により高温となるため、絶えず冷却をつづける必要がある。ところが1957年9月、この冷却装置が故障し、300立方メートルのタンク内の温度は急上昇し、大爆発を起こした。これを「キシュテム事故」と言い、最大100トンの放射性廃棄(radioactive waste)が大気中に放出され、広範なエリアを汚染。結果、40万人を超える人々の頭上に放射線が舞いそそぐことになった。
今日、この広域汚染は「ウラルの核惨事」と呼ばれ、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故、2011年の福島第一原子力発電所事故のレベル7(深刻な事故)に次ぐ、史上3番目に重大な原子力事故とされている。
この事故を、旧ソ連が極秘としてひた隠しにしたため、概要が明らかになったのは1976年、亡命した科学者ジョレス・A・メドベージェフが発表した論文によってだった。
しかし旧ソ連側はこれを否定。アメリカもまた冷戦下における核開発に批判が及ぶのをおそれて事態を静観した。なにより世界中の原子力推進派々が、そうした事故はあり得ず、単なる作り話であると喧伝した。
このため、爆発の真相が開示されるには1989年のグラスノスチ(情報公開)を待たねばならなかった。なお地域住民に、大規模で深刻な放射能汚染が公式に通達されたのは、事故から34年後、ロシア政府が発足した1992年前後のことだった。
1950年代から、プラントの廃棄物は周辺地区と、カラチャイ湖(Lake Karachay)に投棄されてきた。このため、専門家は、この湖が世界でいちばん放射線量の高い場所の1つであることを疑わない。にもかかわらず、数千の人々が日常的に湖水を用いている。
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